伊藤博文の名言11選!何をした?性格や功績がわかるエピソードも紹介!

伊藤博文の名言ブログのアイキャッチ画像 伊藤博文
伊藤博文の肖像画

幕末から明治初期の日本、一人の男がその時代を駆け抜け、日本の近代化に大きな足跡を残しました。その名は伊藤博文。彼は、四度にわたって内閣総理大臣を務め、明治憲法の制定や内閣制度の創設など、日本の近代化に大きく貢献しました。彼の言葉は今もなお、私たちの心に深く響きます。「今日の学問はすべて皆、実学である。昔の学問は十中八九までは虚学である。」。この言葉は、彼が持っていた強い意志と決断力を表しています。

伊藤博文ってどんな人?

項目内容
生年月日1841年10月16日
死亡日1909年10月26日
年齢享年68歳
死因銃撃
職業政治家、内閣総理大臣(4度)
主な業績明治憲法の制定、内閣制度の創設、初代内閣総理大臣
伊藤博文の略歴

伊藤博文は明治時代の日本の政治家で、4度にわたって内閣総理大臣を務めました。彼は、周防国(現在の山口県)の農民の子として1841年に生まれました。しかし、父が長州藩の足軽の伊藤家に養子に入ったことで、彼は下級武士の身分を得ました。彼は若い頃、吉田松陰の私塾である松下村塾で学びました。その後、尊王攘夷運動に参加しましたが、1863年には藩命により井上馨らとともにイギリスに密航して留学し、開国論者となりました。1864年にロンドンで四国連合艦隊の長州藩攻撃の計画を知り、急遽帰国しました。しかし、その提案は受け入れられませんでした。明治維新後の1868年から政府に出仕し、外国事務掛、参与、外国事務局判事、初代兵庫県知事などを歴任しました。1871年には岩倉使節団の副使として外遊しました。この間に大久保利通の信任を得ました。1873年の帰国後には大久保らとともに内政優先の立場から西郷隆盛の征韓論に反対し、同年10月に西郷らが下野すると大久保の片腕として参議兼工部卿に就任しました。1878年に大久保が不平士族に暗殺された後、その後を継いで内務卿に就任し、政府の中心人物となりました。1881年に大隈重信からイギリス型議会政治を目指す急進的憲法意見が出されると伊藤が反対し、大隈ら開明派官僚が下野するという明治十四年の政変が発生しました。1882年にドイツやオーストリアの憲法調査を行い、1884年に宮中に制度取調局を創設してその長官に就任し、立憲体制への移行に伴う諸制度の改革に着手しました。1885年に太政官を廃止して内閣制度を創設し、初代内閣総理大臣に就任しました。井上毅や伊東巳代治、金子堅太郎らとともに憲法や皇室典範、貴族院令、衆議院議員選挙法の草案の起草にあたり、1888年に枢密院が創設されるとその議長に就任し、憲法草案の審議を行いました。1909年10月26日、中国・ハルビン駅で韓国独立運動家安重根によって暗殺されるまで活動を続けました。享年68歳でした。

伊藤博文のエピソードまとめ

伊藤博文のその豪快な人生は自身の出生を物ともせず、その努力と能力でのし上がっていたことが伺いとれます。意外にも女性関係にも豪快だったエピソードもまとめて確認していきましょう。

百姓出身ながらも吉田松陰の元で学ぶ

伊藤博文は周防国(現在の山口県)の百姓の子として生まれました。父が長州藩の足軽伊藤家に入ったため、父とともに下級武士の身分を得ました。しかし、彼の幼少期は貧しく、親が出稼ぎに行っており、一人っ子の博文は母の実家に預けられました。彼は萩に移り住み一家で暮らし始めると、寺に読み書きを習いに行きました。家が貧しかったため利助(のちの伊藤博文)は12歳ころから奉公に出されたという。その後伊藤博文は吉田松陰の私塾である松下村塾に学びました。松下村塾は身分を問わず生徒として受け入れるという理念を掲げていたため、低い身分ながら松下村塾で必死に学び、その才能を見いだされていきました。松陰は博文の人柄を愛し「甚だ杉蔵に貴ぶ所のものは、その憂いの切なる、策の要なる、吾れの及ばざるものあればなり」と評価し、博文を感激させた。それもあり、師の間部詮勝要撃計画のために動き、投獄されました。松陰の死後、博文は高杉らと親しく、英国から帰国後、功山寺挙兵に加わった。

イギリス留学もすぐ呼び戻される!?

伊藤博文は高杉晋作(たかすぎしんさく)や久坂玄瑞、木戸孝允(きどたかよし)らが学んだ松下村塾に入門し、吉田松陰の教育を受け、その後1863年、伊藤博文が22歳のときにイギリスに留学(密航)しました。ロンドンで英語を学び数か月で日常会話ができるようになり、手紙も読めるようになったそうです。伊藤博文が留学していた1863年は生麦事件をきっかけにした薩英戦争が勃発。その二ヶ月後には、長州藩が朝廷の命令により外国船を砲撃するなど、攘夷思想が高まり外国人排斥の風潮が色濃い時期でした。イギリスで、長州藩による外国船砲撃を知った伊藤博文は慌てて帰国しますが、外国との戦争は避けられず、長州藩はイギリス、フランス、アメリカ、オランダの四国連合艦隊に敗北を喫します。この際の講和の通訳を務めたのは伊藤博文です。

内閣総理大臣としてと憲法制定

何度も内閣総理大臣になっている伊藤博文は44歳で初代総理大臣を務め、その後3度も総理大臣を務めます。伊藤博文といえば何度も総理大臣になったことが脚光を浴びがちですが、実は日本の最年少総理大臣は伊藤博文。最初の総理大臣に就任したときの44歳という記録は未だ破られていません。なお明治維新後、内閣制度が創られたのは1884年のこと。明治維新が1869年ですので、15年間は大久保利通などの明治維新の功労者が実権を握っていました。伊藤博文が権力の中枢で活躍するのは大久保利通の死去後です。憲法制定を主導した伊藤博文は明治政府内で、英語能力の高さを評価されて外国事務掛に任命されました。そして岩倉使節団の副使に任命されて再び欧州に向かいます。伊藤博文の目的はドイツ憲法の研究でした。明治維新後、日本では自由民権運動が高まっており、政府は「10年後に国会を開設する」と約束をしました。1881年のことです。そこで政府は伊藤博文に外国で の憲法に関する調査を命じました。伊藤博文は翌年に帰国すると華族令を制定。貴族院を創るために、華族制度を整えました。そして1885年に内閣制度を制定して、内閣総理大臣に就任します。伊藤博文が主導した憲法が発布されたのは1889年のことです。このときに発布された憲法が「大日本帝国憲法」。大日本帝国憲法は、天皇が国の元首として統治をするというものでした。

実はすごい女性関係!?

伊藤博文の女性関係は非常に派手であり、その数は1000人を超えるとか。日本初の総理大臣には意外な一面があったのですね。

近代日本の基礎を築いた伊藤博文は、自身でも1000人の女性と関係を持ったと豪語している。「掃いて捨てるほど女がいる」という意から「箒」という渾名がついた。伊藤にとって人生の意義は、女性との歓喜にあり。それなくしては、生きながら死んだようなものだという。その遍歴は『恋の伊藤博文(谷槌禅罵著:日東館書店刊:1902年)』に詳細に綴られている。伊藤は生涯2度の結婚をしている。最初の妻となったのはすみ子。松下村塾の中で四天王と呼ばれた高杉晋作と肩を並べる秀才、入江九一の妹である。

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67708?page=2

伊藤博文の最後

伊藤博文の最後は、1909年に韓国統監を退任した後、同年ハルビン駅で朝鮮の青年、安重根に銃で撃たれ、暗殺されました。彼が撃たれたとき、「誰が撃ったのか、森(秘書)も撃たれたのか」と叫んだと言われています。息を引き取る前に側近たちと言葉を交わし、自分を撃ったのが朝鮮の人民だと知ると、「俺を撃つなんて、馬鹿なやつだ」と呟いたとされています。また、博文は森秘書官が撃たれたことを知ると「森もやられたか・・・」と呟いたと言われています。これが伊藤博文の最後の言葉とされています。伊藤博文の最期の場所は日本ではなく、中華人民共和国のハルビン駅でした。

伊藤博文の名言集(1)

名言1

今日の学問はすべて皆、実学である。
昔の学問は十中八九までは虚学である。

名言2

国の安危存亡に関係する外交を軽々しく論じ去つて、何でも意の如く出来るが如くに思ふのは、多くは実験のない人の空論である。

名言3

現在の日本は地平線から出たばかりの太陽である。
暁の雲から出たばかりの太陽は光が弱く、色も薄い。
だが、その太陽はやがて中天までくると、全天に輝きわたる。
これと同じように、日本もまもなく世界に雄飛し、日の丸の旗は尊敬の念を持って世界の人々から見られるようになるだろう。

名言4

誰が撃ったのか。
森(秘書官)も撃たれたのか。

名言5

たとえここ(英国)で学問をして業が成っても、自分の生国が亡びては何の為になるか。

名言6

いやしくも天下に一事一物を成し遂げようとすれば、命懸けのことは始終ある。
依頼心を起こしてはならぬ。
自力でやれ。

名言7

大いに屈する人を恐れよ、いかに剛にみゆるとも、言動に余裕と味のない人は大事をなすにたらぬ。

名言8

本当の愛国心とか勇気とかいうものは、肩をそびやかしたり、目を怒らしたりするようなものではない。

名言9

お前に何でも俺の志を継げよと無理は言はぬ。
持って生まれた天分ならば、たとえお前が乞食になったとて、俺は決して悲しまぬ。
金持ちになったとて、喜びもせぬ。

名言10

私の言うことが間違っていたら、それは間違いだと徹底的に追及せよ。
君らの言うことがわからなければ、私も君らを徹底的に攻撃する。
互いに攻撃し議論するのは、憲法を完全なものにするためである。
くり返すが、長官だの秘書官だのという意識は一切かなぐり捨てて、討論・議論を究めて完全なる憲法をつくろうではないか。

コメント

タイトルとURLをコピーしました