幕末の思想家、吉田松陰。彼の行動は日本の歴史を塗り替え、その言葉は私たちに深いインスピレーションを与えてきました。彼の名言には、「みだりに人の師となるべからず。みだりに人を師とすべからず。」、「道を志した者が不幸や罪になることを恐れ、将来につけを残すようなことを黙ってただ受け入れるなどは、君子の学問を学ぶ者がすることではない。」、「夢なき者に理想なし、 理想なき者に計画なし、 計画なき者に実行なし、 実行なき者に成功なし。 故に、 夢なき者に成功なし。 」などがあります。
吉田松陰は何をした?
項目 | 内容 |
---|---|
本名 | 吉田松陰 |
生年月日 | 1830年9月20日 |
出生地 | 日本、長州藩(現在の山口県) |
職業 | 長州藩の郷士、思想家 |
主な活動 | 明治維新の先駆者、松下村塾の創設 |
死去 | 1867年11月21日(37歳) |
吉田松陰は、1830年9月20日に長州藩(現在の山口県)の下級武士の家に生まれました。幼少から叔父が開いた松下村塾で指導を受け、11歳の時には藩主への御前講義によりその才能が認められました。安政2年12月、松陰は野山獄を出て萩の自宅で謹慎するように命じられ、自宅に戻った松陰の元には若者が集まり、松陰は牢獄での経験を生かした教育を行うようになりました。松陰と重之助は、黒船に乗り込んでアメリカに渡ろうと考えます。しかし、当時は幕府の許可なく外国へ渡航することは禁じられていました。もし密航などすれば重罪に問われますが、2人はひるむことなく黒船が停泊する下田に向かいます。松陰が入ったのは野山獄という牢獄。ここは武士階級の牢獄で、1人1室が与えられていました。松陰は他の独房にいる囚人たちと知り合い、互いに得意なことを教え合うということを始めました。しかし、松陰は30歳という若さで処刑(安政の大獄)され、1859年10月27日に生涯の幕を閉じました。彼の生涯は30年と短かったですが、その中で彼が行ったこと、思想、そして彼が育てた人々が日本の歴史に大きな影響を与えました。
松下村塾(しょうかそんじゅく)とその影響
吉田松陰が松下村塾で山鹿流兵法や孟子についての講義をはじめ、倫理学、地理学、歴史、経済さらには芸術まで幅広く教えていました。松下村塾の塾生の中から、幕末より明治期の日本を主導した人材を多く輩出したことで知られています。特に久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿などは戦いの最前線で活躍しましたが、明治維新を見ずに道半ばで亡くなった人も多くいました。これらの人々は、松陰の教えを受けて行動力を身につけ、その後の日本の近代化に大きな影響を与えました。松下村塾の教育方針として、特に世界史には力を入れていて自身が遊学中に培った知識をもとに講義を展開し、さまざまな角度から世界情勢を分析するよう塾生に練習させていました。また、松下村塾では、松陰が前に立って講義を行うよりも塾生どうしで討論をするほうが多かったといわれています。松陰の教育方針は、塾生に自主的な討論を促し、行動することの大切さを説き、そして彼らの短所を活かすというやり方でした。松陰は、その名言どおり信念をもって教育に励み、行動することの大切さを説き、世界に通用する人材を育成していったわけです。
吉田松陰の思想
吉田松陰は幕末の時代に長州藩で松下村塾を主宰し、数々の志士達を育て上げました。彼の思想は、読破した多くの書籍と恩師や友人から得たいろいろな考えを蓄積して形成されました。彼の思想の一つに「規諫の策」があります。これは、国禁を破り海外渡航を企てた松陰の考えで、外国の実情を実際に見聞してそれを藩主に規諫(直接訴えいさめる)しようとしたものでした。また、松下村塾では「飛耳長目(ひじちょうもく)」の合言葉を掲げました。これは、耳を飛ばして目を長くする、つまり多くの情報を入手しそれに基づいて行動しなくてはならないという意味です。そのため講義だけでなく、共に話し合う討論会を重視しました。松陰はまた、「人賢愚ありと雖も各々十二の才能なきはなし。湊合して大成する時は必ず全備する所あらん」という言葉を残しています。これは、人には能力の差はあっても、誰にも長所はあるものだという考えを示しています。長所を伸ばしていけば立派な人間になれるという考え方は、後の松陰の生き方にも深く影響していきました。
海外渡航
吉田松陰が海外渡航を試みたのは、日本が鎖国政策をとっていた時代で、海外渡航は厳しく制限されていました。しかし、松陰はその制限を破り、自らの命をかけて海外渡航を試みました。彼の最初の海外渡航の試みは、1853年にロシア艦プチャーチンが長崎に来航した際に、その艦に便乗しようとしたものでした。しかし、この試みは失敗に終わりました。次に、松陰は金子重之輔とともに、1854年に日米和親条約の締結により開港された下田に向かい、米国ペリー艦隊を追いました。彼らは下田に到着し、松陰は皮膚病の治療のために蓮台寺温泉に向かい、そこで医師の村山行馬郎と知り合いました。その後、松陰と重之輔は、米艦への漕ぎつけを図りましたが、悪天候と高波のために失敗しました。その後、松陰は米兵に「投夷書」(渡航嘆願書)を渡し、弁天島近くから船を出してペリーの旗艦・ポーハタン号に漕ぎつけ、熱心に渡航を懇請しました。しかし、通訳ウィリアムズは条約が結ばれたばかりであり、信義に反して、政府の許可がない渡航をさせるわけにはいかないと断り、松陰と重之輔は福浦海岸に送り返されました。この海外渡航の試みが発覚すると、松陰は幕府によって投獄され、その後、長州に戻されました。
吉田松陰の最後(安政の大獄)
安政の大獄は、江戸幕府の大老であった井伊直弼が1858年から1859年にかけて行った弾圧のことを指します。この事件では、尊王攘夷派や一橋派の人々が処罰され、その数は100人以上にのぼりました。井伊直弼は、朝廷の勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、また将軍継嗣を徳川家茂に決定しました。これらの諸策に反対する者たちを弾圧したのが安政の大獄です。安政の大獄が始まったきっかけの一つは、水戸藩主であった徳川斉昭が無断で江戸城に登城し、井伊直弼に対して抗議を行ったことです。これに対して井伊直弼は斉昭を隠居させ、永蟄居(死ぬまで屋敷から出られない)という処罰を下しました。また、朝廷が水戸藩に密勅を送り、井伊直弼が将軍にしたい徳川慶福ではなく、一橋慶喜を将軍にして外国人を追い払おうとしたことも、安政の大獄の引き金となりました。この密勅に怒った井伊直弼は、朝廷の公家や一橋派の大名、さらに尊王攘夷派の武士も処罰するようになりました。安政の大獄によって、西郷隆盛、徳川春嶽、一橋慶喜、橋本左内、吉田松陰などの人たちが逮捕され、処刑などの処罰を受けることになりました。特に吉田松陰は、自分を死刑にしてくれと言い始め、老中の暗殺計画を自供したため、死刑にされました。安政の大獄は、幕府の規範意識の低下や人材の欠如を招き、諸藩の幕府への信頼を大きく低下させ、反幕派による尊攘活動を激化させ、江戸幕府滅亡の遠因になったとも言われています。
吉田松陰死後の影響
吉田松陰の教え子たちは明治維新の立役者となりました。彼が主催した「松下村塾」からは、多くの人材が輩出されました。吉田松陰自身は生涯を通じて直接的な政治的影響力を持つことはありませんでしたが、彼の教え子たちはその思想を受け継ぎ、日本の歴史を大きく変える役割を果たしました。
高杉晋作:松下村塾四天王の一人で、最も有名な塾生の一人です。身分に左右されない志ある者を集めた「奇兵隊」を結成し、明治維新を加速させる一因となりました。
伊藤博文:初代内閣総理大臣で、高杉晋作の弟分として活躍しました。大日本帝国憲法の発布に尽力しました。
高杉晋作と伊藤博文の詳細については下記のブログにて紹介しておりますのでぜひご覧ください。
吉田松陰の名言集(1)
名言1
みだりに人の師となるべからず。
みだりに人を師とすべからず。
名言2
道を志した者が不幸や罪になることを恐れ、将来につけを残すようなことを黙ってただ受け入れるなどは、君子の学問を学ぶ者がすることではない。
名言3
過ちがないことではなく、過ちを改めることを重んじよ。
名言4
法律をやぶったことについてのつぐないは、死罪になるにせよ、罪に服することによってできるが、もし人間道徳の根本義をやぶれば、誰に向かってつぐないえるか、つぐないようがないではありませぬか。
名言5
夢なき者に理想なし、
理想なき者に計画なし、
計画なき者に実行なし、
実行なき者に成功なし。
故に、夢なき者に成功なし。
名言6
私心さえ除き去るなら、
進むもよし退くもよし、
出るもよし出ざるもよし。
名言7
利をうとんずるといふ事は、必ずしも富を厭ひ貧を欲するといふ事ではない。
貧富によりて少しも心をみださないといふことである。
名言8
満開となれば、やがて花は落ちる。
太陽は南中すれば、やがて陰りはじめる。
人は壮年を迎えれば、やがて老いていく。
百年の間、必死で勉強すべきであり、ゆったりとくつろぐ暇などない。
名言9
君子は何事に臨んでも、それが道理に合っているか否かと考えて、その上で行動する。
小人は何事に臨んでも、それが利益になるか否かと考えて、その上で行動する。
名言10
一つ善いことをすれば、その善は自分のものとなる。
一つ有益なものを得れば、それは自分のものとなる。
一日努力すれば、一日の効果が得られる。
一年努力すれば、一年の効果がある。
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