渋沢栄一の名言51選!新一万円札に選ばれた理由やエピソードなども紹介!

渋沢栄一の名言ブログのアイキャッチ画像 偉人名言集

「日本資本主義の父」と称される渋沢栄一氏、日本で初めての株式会社の設立や現JR東日本や現日本郵船などの元になる企業を500社以上設立しました。彼の名言には、「私は他人が掛物とか屏風とかその他の書画骨董に金を出すと同様に、慈善事業に金を費やすことをもって一種の道楽と思うているくらいである。」、「数字算出の確固たる見通しと、裏づけのない事業は必ず失敗する。」などがあります。

渋沢栄一って何をした人?

カテゴリ内容
生年月日1840年3月16日
出身地埼玉県深谷市
初期の職業幕府の役人、エジソン電気会社の技師長
転機海外留学、日本初の株式会社設立、大蔵省入省
主な業績第一国立銀行開業、多数の企業設立、教育機関設立
信条「世のため人のために働いて儲ける」
死去1931年11月11日
死因直腸がん

渋沢栄一は、日本の近代化に大いに貢献した人物として知られています。彼は1840年に現在の埼玉県で生まれ、幼少期から学問に励みました。その後、幕府の役人となり、海外への留学を経験しました。この経験が彼の視野を広げ、日本の近代化に向けた情熱を燃やすきっかけとなりました。帰国後、彼は日本初の株式会社を設立し、その後も多くの企業設立に関わりました。また、彼は「世のため人のために働いて儲ける」という信条を持ち、その考え方は「渋沢栄一精神」として今日まで引き継がれています。彼はまた、教育にも力を入れ、多くの学校や教育機関を設立しました。その中でも特筆すべきは、日本女子大学の設立です。これは女性の教育と社会進出を推進するための重要な一歩でした。彼の業績は数え切れないほどありますが、その中でも特に影響力があったのは、日本の近代化と産業革命における役割です。彼のビジョンと行動力があったからこそ、日本は急速に近代国家へと変貌を遂げることができました。渋沢栄一は91歳で亡くなりましたが、その遺志は今日でも多くの人々に引き継がれています。彼が残した教材や書籍は現在でも読み継がれており、その影響力は計り知れません。

渋沢栄一のエピソードや功績

渋沢栄一は27歳の時にフランスへの留学を経て、西洋の近代文明に衝撃を受けました。彼は日本に近代的な経済の仕組みを次々と取り入れていき、日本初の銀行や株式会社の設立、その後500以上の会社を設立します。彼のその業績をエピソードと共に確認していきましょう。

フランスへの留学と日本の近代化

渋沢栄一は、1867年に27歳の時、徳川慶喜の弟昭武を代表とする一行の随員として、パリ万国博覧会に出席し、その後も約1年半にわたりフランスおよびヨーロッパ諸国に滞在しました。この経験が彼の人生と日本の近代化に大きな影響を与えました。渋沢はこのヨーロッパ滞在中に「株式会社」という仕組みを学び、その仕組みに感銘を受けました。株式会社とは、多くの人から資金を集めて会社を運営し、利益が出れば出資者に利益を還元するという仕組みで、これをウィンウィンの仕組みと考えました。この仕組みを日本に持ち帰り、日本初の株式会社「商法会所」を設立しました。

日本初の銀行(現みずほ銀行)の設立

渋沢栄一が銀行を設立したエピソードは、彼が大蔵省時代に国立銀行条例の制定に携わったことから始まります。この条例は、当時の日本で通貨制度が混乱していたため、新貨幣の製造と旧紙幣の回収、これまで発行されていた不換紙幣の整理が急務だったため、金貨兌換の国立銀行券を発行し流通させるように制定されました。この国立銀行条例により民間による銀行設立が可能となりました大蔵省を退官した直後、渋沢栄一は三井の大番頭である三野村利左衛門や小野組の小野善右衛門らから声をかけられ、銀行設立を考えました。その結果、1872年11月に国立銀行条例が発布され、三井小野組合銀行は政府の許可を受けて第一国立銀行に改組し、日本で初めて開業した銀行となりました。しかし、設立翌年、第一国立銀行は大きな危機に見舞われました。それは、出資者であり最大の貸出先だった両替商、小野組が破産したことでした。しかし、渋沢栄一はあきらめず、小野組の番頭の一人、古河市兵衛に頼み込んで私財を提供してもらい、倒産を免れました。これらのエピソードは、渋沢栄一の努力と決断力により、日本の金融システムの基盤が築かれ、日本の近代化に大きく寄与したことを示しています。

新1万円札の肖像画

渋沢栄一は、2024年度上半期に発行予定の新1万円札の肖像に選ばれました。彼は「日本資本主義の父」とも呼ばれ、生涯にわたり500もの企業設立などに関与しました。その功績は、日本郵船、帝国ホテル、第一国立銀行(後のみずほ銀行)、東京証券取引所、一橋大学など、現在も存続する多くの企業や機関に名を連ねています。新1万円札のデザインや偽造防止技術、ユニバーサルデザインについても紹介されています。新紙幣は、150年以上にわたり培った偽造防止技術の結晶とされています。なお、現在発行されているお札、過去に発行されたお札については、引き続き使用可能です。新しいお札の発行に伴い、現行のお札と新しいお札が一緒に流通することになります。

実業家としての実績と日本の近代化

渋沢栄一が設立に関与した企業の一部を紹介します。名だたる大企業ばかりで、一万円札の肖像に選ばれる理由も頷けます。

  • 東京海上保険(現在の東京海上日動):1879年に設立され、日本で初めての海上保険会社でした。海外
  • 東京瓦斯(現在の東京ガス):明治維新後、海外との交流が活発になると同時に、ガスが日本人の生活に取り入れられるようになってきました。横浜でガス事業が始まり、ガス灯が夜道を照らすようになったのです。間もなく東京にもガス灯が輝き始めましたが、まだガス事業は官営で行われていました。そこで渋沢栄一がガス事業に乗り出し、1885年に民間で初となるガス会社「東京瓦斯」が誕生したのです。
  • 大阪紡績(現在の東洋紡):貿易が盛んになるにつれ、業績が伸び悩む産業が出てきました。紡績業もその一つです。海外から良質な綿製品が大量に輸入されると、どうしても国内の綿製品生産量が減少してしまいます。紡績業の衰退を懸念した渋沢栄一は、旧大名や商人から出資を募り、近代的設備を整えた工場の設立を急ぎました。1882年、ついに栄一の奔走が実を結び、「大阪紡績」が設立されたのです。

渋沢栄一の子孫は?

渋沢栄一は、生涯にわたり多くの企業や教育機関の設立に関与しました。彼の子孫は100人以上いると言われていますが下記には彼の子供たちを記します。

  • 長女:穂積歌子(1863年 – 1932年)
  • 次女:阪谷琴子(1870年 – 1925年)
  • 長男:渋沢篤二(1872年 – 1932年)
  • 次男:渋沢武之助(1886年 – 1946年)
  • 三男:渋沢正雄(1888年 – 1942年)
  • 三女:明石愛子(1890年 – ?)
  • 四男:渋沢秀雄(1893年 – 1984年)

彼の子孫たちは、現代でも社会に貢献している人が多く、渋沢雅英さん、鮫島純子さん、鮫島弘子さんなどが活躍しています。これらの人々は、渋沢栄一の遺産を引き継ぎ、日本社会に貢献し続けています。

渋沢栄一の名言集(1)

名言1

私は他人が掛物とか屏風とかその他の書画骨董に金を出すと同様に、慈善事業に金を費やすことをもって一種の道楽と思うているくらいである。

名言2

心を穏やかにさせるには思いやりを持つことが大事である。
一切の私心をはさまずに物事にあたり、人に接するならば、心は穏やかで余裕を持つことができるのだ。

名言3

どんなに勉強し、勤勉であっても、上手くいかないこともある。
これは機がまだ熟していないからであるから、ますます自らを鼓舞して耐えなければならない。

名言4

数字算出の確固たる見通しと、裏づけのない事業は必ず失敗する。

名言5

人は全て自主独立すべきものである。
自立の精神は人への思いやりと共に人生の根本を成すものである。

名言6

夢なき者は理想なし。
理想なき者は信念なし。
信念なき者は計画なし。
計画なき者は実行なし。
実行なき者は成果なし。
成果なき者は幸福なし。
ゆえに幸福を求むる者は夢なかるべからず。

名言7

一個人がいかに富んでいても、社会全体が貧乏であったら、その人の幸福は保証されない。
その事業が個人を利するだけでなく、多数社会を利してゆくのでなければ、決して正しい商売とはいえない。

名言8

真似をするときには、その形ではなく、その心を真似するのがよい。

名言9

世の人が元気をなくしており、社会の発展が停滞している。いままでの仕事を守って間違いなくするよりも、さらに大きな計画をして発展させ、世界と競争するのがよいのだ。

名言10

人を選ぶとき、家族を大切にしている人は間違いない。
仁者に敵なし。
私は人を使うときには、知恵の多い人より人情に厚い人を選んで採用している。

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