【日本の夜明けぜよ】坂本龍馬の名言41選!薩長同盟や大政奉還、暗殺の詳細まで解説

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坂本龍馬の肖像画

幕末の英雄、坂本龍馬。彼の行動は日本の歴史を塗り替え、その言葉は私たちの原動力となり得ることでしょう。彼の名言には、「今は力を培養するときだ。その時機を辛抱できぬのは男ではない。」、「いったん志を抱けば、この志にむかって事が進捗するような手段のみをとり、いやしくも弱気を発してはいけない。たとえその目的が成就できなくても、その目的への道中で死ぬべきだ。」などがあります。

坂本龍馬ってどんな人?

項目内容
本名坂本龍馬
生年月日1836年1月3日
出生地日本、土佐藩(現在の高知県)
職業土佐藩の郷士、志士
主な活動亀山社中(後の海援隊)の設立、薩摩藩と長州藩の同盟構築
死去1867年12月10日(31歳)
坂本龍馬の略歴

坂本龍馬は、1836年に日本の土佐藩(現在の高知県)で生まれた幕末の志士で、その生涯は日本の歴史に大きな影響を与えました。彼の家族は裕福な家庭で、父親は質屋と酒造業を営んでいました。幼少期から剣術を学び、18歳で江戸に出て修行を積みました。その後、彼は脱藩し、志士として活動を始めました。彼が最も知られている功績の一つは、犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩を同盟へと導いたことです。これにより幕府は天皇に政治をする権限を返す、つまり「大政奉還」をすることになりました。しかし、そのわずか1ヶ月後の1867年12月10日に京都河原町通蛸薬師下ルの近江屋で何者かに暗殺されてしまいました。彼が亡くなった時、世界中から多くの追悼の声が寄せられました。彼が亡くなった後も多くの人々が彼への敬意を表し、「龍馬が現れるまでは、日本はただの国に過ぎなかった」と述べるなど、彼が日本国家に与えた影響は計り知れません。

坂本龍馬の幼少期

坂本龍馬の幼少期は、一見すると落ちこぼれのように見えるかもしれませんが、その背後には彼の人格形成に大きな影響を与えました。龍馬は1836年、現在の高知県高知市の下級武士であった坂本家の次男として生まれました。家族構成は、父である八平、母の幸、兄権平、3人の姉千鶴、栄、乙女、そして龍馬の7人家族でした。幼少期の龍馬は、末っ子として大変可愛がられました。彼は気が弱く、マイペースで、頭もあまり良くなかったと言われています。また、10歳頃までおねしょをしていたとも伝えられています。学問に対してはあまり興味を示さず、12歳で楠山塾に入塾したものの、一年も経たずに退塾してしまいました。退塾の理由については諸説ありますが、上士との口論が原因だったという説が有力とされています。しかし、これらの逆境が龍馬の人間性を形成する重要な要素となりました。特に、母の幸が亡くなった後は、姉の乙女が母親代わりとなり、龍馬を教育しました。乙女は龍馬に読み書きやそろばん、武芸、精神面などを教え、龍馬の才能を引き出しました。

土佐藩の脱藩

坂本龍馬は日本の歴史を大きく変えるために、脱藩という重大な決断をしました。龍馬は1862年、28歳の時に土佐藩を脱藩しました。龍馬は久坂玄瑞との出会いを通じて、「草莽崛起論(そうもうくっきろん)」を学び、諸侯も公家も頼むに足らず、草莽の志士が糾合さえすれば天下を動かせるという考え方に大いに賛同しました。「草莽崛起論」は、吉田松陰が唱えた思想で、藩や公家に頼るのではなく、一般大衆(草莽)が立ち上がり、大きな事を成し遂げることを主張するものです。龍馬はこの思想を受け入れ、自身の行動に反映させました。その結果、龍馬は脱藩し、「挙国の海軍」を創設するなど、日本の近代化に大いに貢献しました。これにより、龍馬は尊王志士としての骨格が形成され、脱藩の決意を固めたと考えられています。脱藩後の龍馬は、薩摩藩の義挙へ加わることを目指し、そのために薩摩・長州・土佐3藩が同盟関係を構築して、朝廷守護に尽力することを提案しました。これが、後の薩長同盟の成立につながり、日本を新しい時代へと導くことになります。

勝海舟との師弟像

勝海舟の肖像画
坂本龍馬と勝海舟の出会いの詳細

坂本龍馬と勝海舟の出会いは、幕末の日本を大きく変える重要な出来事でした。龍馬が勝海舟と出会ったのは、幕府政事総裁職の松平春嶽からの紹介によるものでした。龍馬は門田為之助・近藤長次郎と共に勝海舟の屋敷を訪れ、勝の門人となりました。勝海舟本人が晩年に語ったところによれば、龍馬が勝を斬りに行ったものの、諭されて龍馬が弟子入りしたとされていますが、これは勝海舟の記憶違いの可能性が高いと言われています。実際には、龍馬が勝海舟の屋敷を訪れる際、正式に紹介状を受けていたことなどが、その理由としてあげられていますが、どちらにしても坂本龍馬は勝海舟に心服していたことは本当のようです。勝海舟も坂本龍馬を可愛がっていたようで、土佐藩藩主の山内容堂に取り成して1863年坂本龍馬の脱藩の罪が赦免され、土佐藩藩士が勝海舟の私塾に入塾することも認められています。この出会いが、龍馬と西郷隆盛を引き合わせ、ひいては坂本龍馬と薩摩藩との関係に繋がり、当時あまり仲が良くなかった薩摩と長州を結び付け、日本を新しい時代へと導いて行くことになるのです。

勝海舟の名言ブログ

明治維新とは?

明治維新の詳細画像

明治維新は、日本の歴史上の重要な転換点で、江戸時代末期から明治時代初期にかけて行われた一連の政治的、経済的、社会的、文化的な大変革を指します。この時期、日本は長い鎖国政策を終え、開国し、近代化へと向かうための重要なステップを踏みました。幕藩体制が崩壊し、天皇を中心とした中央集権的な統一国家が形成されました。これにより、日本は封建社会から資本主義社会へと移行し、近代化が進行しました。明治維新は、幕末の動乱と世界資本主義の圧力が結びついた結果として起こりました。この時期、日本は大量の外国製品の輸入により、国内産業が大打撃を受けました。明治維新の中心人物として挙げられるのがやはり坂本龍馬です。彼は薩摩藩と長州藩の間に立って同盟を仲介し、倒幕の動きを加速させました。また、彼は大政奉還の提唱や、日本初の国際的な商社である「亀山社中」(後の「海援隊」)の設立など、日本の近代化に大いに貢献しました。

薩長同盟

坂本龍馬が薩長同盟を結ぶまでの道のりは、決して容易なものではありませんでした。薩摩藩と長州藩は、元々非常に仲が悪く、犬猿の仲でした。坂本龍馬と中岡慎太郎は、この二つの藩が手を結ぶことで、倒幕運動が加速すると考え、薩長同盟の構想を考えました。薩摩藩は、幕府に絶対的信頼を持っているわけではなく、幕府も薩摩藩の影響力は脅威だったため、薩摩藩の力を削るために、薩摩藩に「長州征伐」を命じました。薩摩藩は長州藩と戦えば財政も兵力も消耗してしまいます。そこで、同じく倒幕を考えている長州藩と和解し、協力体制を整えるために薩長同盟を結ぼうということになったのです。薩長同盟の成立には、龍馬の行動力や交渉術があったからこそ成立まで行き着いたと考えられます。龍馬は、薩摩藩が武器を購入して長州藩に横流しすることを提案し、両藩の歩み寄りを図りました。最初の両藩による下関での会談は、薩摩藩の中心人物である西郷隆盛がドタキャンをしたため、同盟は不可能かと思われました。そこで坂本龍馬、中岡慎太郎、そして長州の小田村伊之助が奔走し、再度会談をとりつけます。そして京都の小松帯刀の屋敷に長州藩の桂小五郎(木戸孝允)が赴く事で、薩長同盟が結ばれます。この会合では、両藩とも自分の藩のメンツがあり同盟の話をできずにいました。それどころか、長州藩の中心人物の桂は薩摩に対し恨み言を延々と言う始末。ここで龍馬は西郷吉之助、大久保一蔵、小松帯刀らに対し、「長州藩は自分から言い出せない立場にいるから、薩摩藩が男を見せてやれ」と言いました。この龍馬の発言によって、西郷は自分が同盟を言い出すことを承知したと言われています。

西郷隆盛の名言ブログ

大政奉還の提案

大政奉還の詳細画像

坂本龍馬が大政奉還を提案した出来事は、幕末の混乱した時代において重要な意義を持っています。慶応3年(1867年)、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜は政権の返上を明治天皇に上奏しました。いわゆる大政奉還です。この出来事の裏で活躍したのが、薩長同盟で有名な坂本龍馬でした。龍馬は大政奉還という考え方を後藤象二郎に示しました。これは「船中八策」と呼ばれる8つの策の一つで、「天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事」と記されています。龍馬はこの考えを土佐藩から徳川慶喜に提案し、慶喜がこれを受け入れたことで、大政奉還が実現しました。龍馬が大政奉還を提案した背景には、日本を諸外国から守るため、早急に内紛を納める必要があったと考えられます。当時の日本は、尊王攘夷派と佐幕開国派に分かれて対立しており、これを一つにまとめるために大政奉還が必要だったのです。しかし、龍馬の願いは龍馬暗殺によって消えてしまい、日本は鳥羽伏見の戦いへと突入してしまったのです。

坂本龍馬の最後(暗殺)

龍馬が暗殺された近江屋の詳細画像

坂本龍馬の最後は、慶応3年(1867年)11月15日、京都の近江屋という宿で襲撃を受けたことで知られています。この時、龍馬は陸援隊の中岡慎太郎と従僕の山田藤吉と共にいました。午後8時頃、十津川郷士と名乗る者たちが面会に現れ、従僕の藤吉が取り次ぐとそのまま龍馬たちがいる2階へと押し入りました。龍馬も中岡も帯刀しておらず、龍馬は床の間にあった陸奥守吉行(愛刀)を手に取りましたが、抜刀することができずに鞘ごと相手の刃を受けてしまいました。しかし、刃を防ぎきることができず、鞘は割れ、刀身にまで達した刃に龍馬は額を深く斬られ、その他の場所も斬りつけられてほとんど即死に近かったといわれています。龍馬の暗殺の犯人については、現在でも諸説あり、未だに解明されていません。当初は新選組隊士で松山出身の10番隊組長の原田左之助が疑われていましたが、現在の通説では、松平容保と京都市中見廻組ということになっています。しかし、真実は相も変わらず闇の中です。龍馬の死後、海援隊、陸援隊により、龍馬、中岡、藤吉の葬儀が行われました。このように、坂本龍馬の最後は悲劇的なものでしたが、彼の思想と行動は日本の近代化に大いに貢献し、今日でも多くの人々に尊敬されています。

坂本龍馬の名言集(1)

名言1

今は力を培養するときだ。
その時機を辛抱できぬのは男ではない。

名言2

いったん志を抱けば、この志にむかって事が進捗するような手段のみをとり、いやしくも弱気を発してはいけない。
たとえその目的が成就できなくても、その目的への道中で死ぬべきだ。

名言3

何の志も無きところに、ぐずぐずして日を送るは、実に大馬鹿者なり

名言4

感涙とどめず、遥か江戸の地より拝し、龍馬かならずこの恩に報うべし、と天地神明に誓ふ。

名言5

人間というものは、いかなる場合でも、好きな道、得手の道を捨ててはならんものじゃ。

名言6

人として生まれたからには、太平洋のように、でっかい夢を持つべきだ。

名言7

文(ふみ)開く衣の袖は濡れにけり
海より深き君が美心(まごころ)

名言8

事をなさんとすれば、智と勇と仁を蓄えねばならぬ。

名言9

おれは落胆するよりも、次の策を考えるほうの人間だ。

名言10

時勢は利によって動くものだ。
議論によっては動かぬ。

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