パブロ・ピカソの名言・格言 41選!「できると思えばできる」と応援してくれる名言など

ピカソ名言ブログのアイキャッチ画像 ピカソ
ピカソの肖像画

パブロ・ピカソは、1881年にスペインのマラガで生まれ、1973年にフランスのムージャンで亡くなりました。彼は画家、彫刻家、版画家として活躍し、キュビズムなど数々の技法を創出しました。彼は91歳までの生涯で、油絵、素描、版画、彫刻など総計でおよそ14万以上の作品を世に送り出しました。彼は、その作品だけでなく、彼の言葉でも世界中の人々を魅了し続けています。彼の名言には、「回教徒が寺院に入るとき靴を脱ぐように、私は仕事中、ドアの外に肉体を置いてくる。」や「優秀な芸術家は模倣し、偉大な芸術家は盗む。」、「冒険こそが、わたしの存在理由である。」、「できると思えばできる、できないと思えばできない。 これは、ゆるぎない絶対的な法則である。」などがあります。

できると思えばできる、できないと思えばできない。 これは、ゆるぎない絶対的な法則である。

ピカソ 名言

パブロ・ピカソってどんな人?

項目情報
フルネームパブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・フアン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピニャーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・ピカソ
生年月日1881年10月25日
出生地スペイン、マラガ
死亡日1973年4月8日
死亡地フランス、ムージャン
死因心臓麻痺
作品数147,800
職業画家、彫刻家、版画家
主な作品アビニヨンの娘たち、ゲルニカ、青の時代、バラ色の時代
ピカソの略歴詳細

パブロ・ピカソは、1881年にスペインのマラガで生まれました。彼は美術教師であった父親に幼少期より絵画を学び、早くから才能を発揮しました。その後「青の時代」や「バラ色の時代」にはじまり、革新的な「キュビズム」という技法を創出しました。1937年、混沌とした戦時中には『ゲルニカ』などの象徴的な作品を制作し、反戦や抵抗のシンボルとして評価されました(諸説あり)。ピカソは、91歳までの生涯で、油絵、素描、版画、彫刻など総計でおよそ14万以上の作品を世に送り出しました。その中でも特に有名になっているいくつかの絵画・作品があります。例えば、1907年に描いた「アビニヨンの娘たち」は、ピカソが現代美術における潮流の1つであるキュビズムを確立し始めた作品です。彼は1973年4月8日に亡くなりました。彼は亡くなる直前まで創作活動を続け、画家として最後まで時代の最先端を走っていたのです。

非常に長い本名

ピカソの名前はよくクイズ番組で問題とされるほど長いですが、その本名を改めて見ると非常に長いですね。ちなみにパブロ (Pablo)はスペイン語で「小さい」または「謙虚」を意味、ピカソ (Picasso)は イタリア起源の姓であり、特にリグーリア地方にそのルーツを持つとされています。

ピカソの本名パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピーン・クリスピアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ

技術的熟練度と早期からの才能

ピカソ13歳時点での絵画

パブロ・ピカソの父、ドン・ホセ・ルイス・ルイス・ブラスコ・イ・ピカソ(Don José Ruiz Blasco y Picasso)は、自身も画家であり、美術教師としても働いていました。ピカソの父は彼に絵画の初歩を教え、若いパブロが絵画に対して類稀な才能を持っていることを早くから認識していました。パブロがまだ子供の頃にパブロが描いた鳩のスケッチを見た父は、そのリアリズムと技術的な完成度において父が描いた作品を凌駕していました。この出来事により息子の圧倒的な才能を認め、自らの画家としてのキャリアを後にし、以降はパブロを支援することに専念しました。またこの時自分では絵を描くことがない意思表示として筆を折ったとされています。

ゲルニカ

ゲルニカの紹介画像

『ゲルニカ』(1937年)は、スペイン内戦中の1937年4月26日に、ナチスドイツの軍隊によって爆撃されたバスク地方の小さな町ゲルニカへの攻撃を題材にしています。この壮大な壁画サイズの作品は、戦争の恐怖と無意味さを強烈に伝えるもので、20世紀の政治的抑圧と暴力に対する普遍的な抗議の象徴となりました。『ゲルニカ』は、戦争の残酷さを描いたアートワークの中で最も重要な作品の一つとされ、後の芸術家たちに大きな影響を与えました。この作品は、政治的なメッセージを持つアートの可能性を示し、芸術が社会的、政治的な議論に積極的に貢献できることを証明しました。

泣く女

泣く女の紹介画像

『泣く女』シリーズ(1937年)は、『ゲルニカ』を制作する過程で生まれた作品群の一部であり、戦争によって引き起こされる悲しみと苦痛を象徴的に表現しています。このシリーズの女性像は、深い悲しみと内面的な苦悩を表現しており、ピカソの個人的な関心事でもある女性の像を通して、より広い人間の感情を捉えています。『泣く女』は、戦争とその結果としての個人的な悲劇をテーマにした作品として、広く認識されています。このシリーズは、個人の苦痛を通じて普遍的な苦悩を描き出し、戦争の影響を受けた人々への共感を呼び起こします。

ピカソの凄さと作風の変化

ゲルニカの紹介画像

ピカソはキュビズムを代表する芸術家として広く知られていますが、彼の革新性はキュビズムにとどまりません。彼の長いキャリアを通じて、ピカソは多くの異なるスタイルと技法を探求し、美術史において多大な影響を与えました。以下に、キュビズム以外でピカソが取り組んだ主なスタイルや貢献を紹介します。

青の時代とバラ色の時代(1901年-1906年)

青の時代のピカソ作品
バラ色の時代のピカソの作品

青の時代(左の絵画)青の時代は、ピカソがパリでの生活を始め、貧困や孤独、そして友人の自殺など、厳しい現実に直面していた時期に始まります。この時期の作品は、社会的な疎外感や内省的な悲しみを色彩と形で表現しています。青の時代の作品は、ピカソが伝統的な主題や表現方法を超え、感情や心理状態を直接的に描写することにより、表現主義の先駆けとなりました。

バラ色の時代(右の絵画)バラ色の時代は、ピカソがフェルナンド・オリヴィエとの出会いを経験し、人生においてより陽気で楽観的な時期に入ったことを反映しています。この時期の作品は、サーカスの演者やハリジャンなど、より軽やかで喜びに満ちた主題に焦点を当てています。バラ色の時代の作品は、色彩の使用と主題の選択において、ピカソの芸術的探求の新たな方向性を示しました。暖色系のパレットと生命感あふれる主題は、ピカソの技術的な幅と表現の多様性を示しており、後の彼のキュビスムへの移行においても、形と色の革新的な使用への理解を深める基礎となりました

アフリカン影響期 (1907-1909年)

アビニョンの娘たちの画像

パブロ・ピカソのアフリカン影響期は1907年から1909年にかけての時期で、彼のキャリアにおいて特に革新的な段階を示します。この時期にピカソはパリのエスニオグラフィック博物館でアフリカの芸術作品に触れ、強烈な表現力と形式の単純化に深く影響を受けました。アフリカ芸術の抽象性と精神性が、彼の作品に新たな次元をもたらしました。特に、この時期の代表作『アビニョンの娘たち』(上で紹介している絵画)は、裸の女性像を幾何学的かつ断片化された形で描き、顔の一部をアフリカのマスクを連想させる形式で表現しています。これは、西洋美術における伝統的な人物表現と遠近法に対する大胆な挑戦であり、後にピカソが展開するキュビスムへの道を開く作品となりました。このアフリカン影響期を通じて、ピカソは形と空間に関する従来の規範を打破し、芸術作品における内面的な力と感情の直接的な伝達を追求しました。その結果、西洋美術における表現の範囲を大きく拡張し、20世紀初頭のアバンギャルド芸術に大きな影響を与えることになります。

キュビズム期(1909年-1919年)

分析的キュビズムの代表作
相互王的キュビズムの代表作品

アナリティックキュビズム(左側の絵画):アナリティックキュビズムの時期は、工業化、科学技術の進歩、および社会の変化が著しかった時代に始まります。ピカソとブラックは、特にアフリカの彫刻やセザンヌの作品からの影響を受け、物体をその本質的な幾何学的形状に還元して表現する新しい手法を開発しました。画面上で物体を分解し、多面的な視点から再構成することで、三次元空間を二次元の平面上で表現する新たな方法を提示しました。このアプローチは、視覚芸術における表現の根本的な再考を促し、後の抽象芸術や構成主義などの多くの美術運動に影響を与えました。

シンセティックキュビズム(右側の絵画):シンセティックキュビズムの時期は、アナリティックキュビズムの複雑さと抽象性に対する反応として現れました。この時期には、色彩、テクスチャー、コラージュ技法の導入により、より直感的でアクセスしやすい作品が生み出されました。シンセティックキュビズムは、美術における物語と象徴の復活を見せ、画面上での新しい形式の探求と素材の実験を促しました。コラージュ技法の導入は、後のダダイズムやシュルレアリスムなどのアバンギャルド運動に大きな影響を与え、美術の概念を広げることに貢献しました。

新古典主義(ネオクラシシズム、1920年代)

新古典主義のピカソの作品

第一次世界大戦後のヨーロッパは、深刻な社会的、経済的、心理的な打撃を受けていました。多くの人々は戦争の悲惨さから逃れるように、平和と秩序を求めました。この文化的な気運は、芸術界においても古典的な価値と秩序への回帰を促すことになり、ネオクラシシズムの興隆を見ることになります。ピカソのこの時期の作品は、後のアーティストたちにとって、古典的形式を現代的な文脈で再解釈する方法を模索するきっかけとなりました。ネオクラシシズムは、20世紀後半のポストモダン美術への道を開く、一つの重要なステップと見なされています。近代美術(モダンアート)は、 実験精神を重視し、過去の伝統的な美術様式から脱しようとした思想や様式を抱いた芸術作品。

シュルレアリスム(1920年代後半-1930年代)

シュルレアリスム時代

シュルレアリスムが生まれた1920年代は、第一次世界大戦後の社会的、政治的不安定さや文化的な混乱の中で、人々が経験した苦痛や不条理を反映しています。戦争の惨禍は、多くの知識人や芸術家に、従来の価値観や表現方法への疑問を抱かせ、新しい表現の方法を模索させました。この時期、精神分析学、特にフロイトの無意識に関する理論が大きな影響を与え、シュルレアリストたちは無意識の力を芸術作品に取り入れることで、内面世界の探求を深めました。シュルレアリストたちは、芸術が持つ革命的な可能性を信じ、社会変革への貢献を目指しました。彼らは、芸術を通じて社会的、政治的なメッセージを伝え、観者に深い印象を残す作品を創り出しました。

フロイトの名言ブログ

名言「できると思えばできる」の意味

この名言は、自分の思考が行動と結果に直接影響を与えるという考え方を表しています。自分が何かを達成できると信じて行動すれば、その目標を達成する可能性が高まるということをピカソなりに示しています。逆に、自分が何かを達成できないと思い込んでしまうと、その思い込みが現実となり、目標達成のチャンスを自ら閉ざしてしまう可能性があるという警告でもあります。ピカソ自身が多作であり、絶えず新しいスタイルや技法を試みていたことを考えると、この名言は彼自身の創造的な姿勢を反映しているとも言えます。

できると思えばできる、できないと思えばできない。これは、ゆるぎない絶対的な法則である。

ピカソ 名言

パブロ・ピカソの名言集(1)

名言1

今は、もう感動はない。
だから、感想が湧くのである。
感動には、叫びはあるだろうが、言葉はない。

名言2

回教徒が寺院に入るとき靴を脱ぐように、私は仕事中、ドアの外に肉体を置いてくる。

名言3

すべてのものは、かぎられた量しかない。
とくに幸福は。

名言4

冒険こそが、わたしの存在理由である。

名言5

優秀な芸術家は模倣し、偉大な芸術家は盗む。

名言6

ひらめきは、自分で呼び込めるものではない。
わたしにできるのは、ひらめきを形にすることだけだ。

名言7

芸術は悲しみと苦しみから生まれる。
わたしは立ち止まりはしない。

名言8

太陽を黄色い点に変えてしまう絵描きもいれば、黄色い点を太陽へと変えられる絵描きもいる。

名言9

昔、母は私にこう言った。
お前が軍人になれば、将軍となるでしょう。
修道士になれば、法王となるでしょう。
そして私は画家となり、ピカソとなった。

名言10

大切なことは、熱狂的状況をつくり出すことだ。

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