幕末の激動の時代、一人の男が風雲急を告げる日本の歴史に名を刻みました。その名は勝海舟。彼の生涯は、幕末から明治初期にかけての日本を駆け抜けた、まさに一世を風靡した男でした。彼の言葉は今もなお、私たちの心に深く響きます。「我が身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」、「今から古を見るのは、古から今を見るのと少しも変りはないさ。」この言葉は、彼が持っていた強い意志と決断力を表しています。
勝海舟ってどんな人?
項目 | 内容 |
---|---|
生年月日 | 1823年3月12日 |
死亡日 | 1899年1月19日 |
死因 | 脳溢血(脳卒中) |
出身 | 土佐高知藩 |
職業 | 武士、政治家 |
活動期間 | 幕末から明治初期 |
主な功績 | 戊辰戦争時の江戸城無血開城の交渉役、日本初の海軍大臣 |
勝海舟は、幕末から明治にかけて活躍した武士・政治家で、激動の幕末を経て、明治新政府が立ち上がった大きな流れの中で、江戸幕府と明治新政府の間に立ち、江戸城を無血開城させた立役者です。彼は貧しい旗本の家に生まれながらも、自らの努力でチャンスをつかみ、旧幕府や新政府の要職に就いた、まさに努力の人と言えるでしょう。彼はもとは身分の低い御家人だったが着々と出世し、徳川幕府が倒れる寸前には幕府の終戦最高責任者として江戸無血開城を果たしました。その後は明治新政府に参加し海軍大臣や枢密顧問官にもなっています。つまり勝は「二君に仕えた幕臣」の典型である。そんな勝の生きる姿勢を、「忠臣二君に仕えず」と苦々しく思っていた福沢諭吉をはじめとする世論。しかしながら勝は「白か黒か」の二者択一的なものの考え方や行動をとらなかった。「自分で、自分を窮地に追い込まない」、つまり自分を大切にするという、積極的で柔軟な自然体で人生に対していったのである。
勝海舟と坂本龍馬の師弟関係
勝海舟と坂本龍馬の関係は非常に深いものでした。彼らは幕末の日本で重要な役割を果たし、日本の歴史に大きな影響を与えました。勝海舟は幕府の人間でありながら、坂本龍馬や高杉晋作、桂小五郎、西郷隆盛と交流を持ち、尊攘派の志士達にも一目置かれていました。彼は1860年に幕府からの遣米使として日米和親条約の批准書交換のために渡米経験があります。一方、坂本龍馬は1862年12月9日に幕府政事総裁職の松平春嶽から幕府軍艦奉行並の勝海舟への紹介状を受け、勝海舟の門人となりました。龍馬は勝海舟を日本第一の人物として尊敬し、勝海舟の海軍操練所の開設のために働いていました。勝海舟も坂本龍馬を可愛がっており、土佐藩藩主の山内容堂に取り成して1863年に坂本龍馬の脱藩の罪が赦免され、土佐藩藩士が勝海舟の私塾に入塾することも認められていました。坂本龍馬が西郷隆盛と面会したのも勝海舟の紹介を受けてのことで、勝海舟と坂本龍馬が出会い、西郷隆盛との繋がりを持ったことで日本の歴史は新たな時代へと大きく動くことになったのです。このように、勝海舟と坂本龍馬の関係は日本の近代化に大きな影響を与え、今日の日本と諸外国との交流や貿易の礎を築いたと言えるでしょう。
咸臨丸での脱藩と脱藩劇
勝海舟は1860年、38歳の時に咸臨丸でサンフランシスコ港を目指して出発しますが、まさに出発の日、海舟は熱病をわずらって、ひどい頭痛で寝込んでいました。ところが「畳の上で犬死にするよりは軍艦の中で死んだほうがまし」と、妻には「ちょっと品川まで行ってくる」と言い残し、そのままサンフランシスコまで行ってしまいました。
功績:江戸城の無血開城
江戸の無血開城は、1868年(慶応4年)に徳川家が江戸城を新政府に明け渡した出来事で、これによって徳川家による日本の支配は終わりました。この偉業を成し遂げたのが幕臣の勝海舟であり、彼の卓越した交渉力と先見性により、江戸の大混乱を防ぎ、多くの人命を救い、日本国家を諸外国からの占領という危機から護ることとなりました。勝海舟は、新政府軍が江戸に侵攻する計画を知り、事前交渉役として山岡鉄太郎(鉄舟)を派遣しました。山岡鉄太郎は新政府軍の幹部である西郷隆盛と会談し、西郷隆盛から提示された降伏条件について勝海舟と協議しました。その結果、勝海舟と西郷隆盛の間で、徳川慶喜の身柄を備前藩に預けること、江戸城を明け渡すこと、軍艦をすべて引き渡すこと、武器をすべて引き渡すこと、城内の家臣は向島に移って謹慎すること、徳川慶喜の暴挙を補佐した人物を厳しく調査し、処罰すること、暴発の徒が手に余る場合、官軍が鎮圧すること、という7つの条件が提示されました。しかし、勝海舟は「徳川慶喜の身柄を備前藩に預けること」については断固として拒否しました。これは、君主を他藩に預けるというのは家臣として受け入れられないという彼の信念から来るものでした。最終的に、西郷隆盛は勝海舟の決意に感銘を受け、新政府軍の江戸総攻撃を中止することを決定しました。これにより、江戸城の無血開城が実現し、江戸の大混乱と多くの人命の喪失が防がれました。
勝海舟の名言集(1)
名言1
外交の極意は、誠心誠意にある。
ごまかしなどをやると、かえって、こちらの弱点を見抜かれるものだよ。
名言2
人はみな、さまざまに長ずるところ、信ずるところを行えばよいのさ。
社会は大きいからあらゆるものを包容して毫(ごう)も不都合はない。
名言3
島国の人間は、どこも同じことで、とにかくその日のことよりほかは目につかなくって、五年十年さきはまるで暗やみ同様だ。
それもひっきょう、度量が狭くって、思慮に余裕がないからのことだよ。
名言4
世の中に無神経ほど強いものはない。
名言5
あれのこれのと心配ばかりしていては、自然と気が餓え神(心)が疲れて、とても電光石火に起こりきたる事物の応接はできない。
名言6
敵は多ければ多いほど面白い。
名言7
事を成し遂げる者は愚直でなければならぬ。
才走ってはうまくいかない。
名言8
世人は、首を回すことは知っている。
回して周囲に何があるか、時勢はどうかを見分けることはできる。
だが、もう少し首を上にのばし、前途を見ることを覚えないといけない。
名言9
その人がどれだけの人かは、人生に日が当たってない時にどのように過ごしているかで図れる。
日が当たっている時は、何をやってもうまくいく。
名言10
外国へ行く者が、よく事情を知らぬから知らぬからと言うが、知って行こうというのが良くない。
何も用意しないでフイと行って、不用意に見て来なければならぬ。
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