ジョン・レノンってどんな人?彼のエピソードと心に響く名言集

ジョン・レノン 名言ブログのキャッチコピー ジョン・レノン

銃撃による死とその衝撃的な死は世界中の人々を今なお悲しませています。反戦の強い意志を持ち、その名曲は世界中の人々を魅了しました。また、奥さんは日本人と親日としても知られています。

彼の名言には、「僕らは、自分のすばらしさと不完全さのなかで、何よりも自分自身を愛することから学ばなければいけない。」などがあります。この言葉はSNSで他人と容易に比較ができてしまう現代人にまさに必要な言葉なのではないでしょうか?彼の名言とエピソードを一緒に見ていきましょう!

ジョン・レノンってどんな人?

項目情報
フルネームジョン・ウィンストン・オノ・レノン
生年月日1940年10月9日
出生地イギリス、リヴァプール
命日1980年12月8日
死亡地アメリカ、ニューヨーク州ニューヨーク市
職業シンガーソングライター、ギタリスト、平和運動家
主な作品Imagine, Give Peace a Chance, Happy Xmas (War Is Over), Instant Karma!, Mind Games

ジョン・レノンは、1940年10月9日にイギリスのリヴァプールで生まれました。彼はシンガーソングライター、ギタリスト、平和運動家として活躍しました。彼はビートルズを立ち上げたリーダーで、ボーカル、ギターなどを担当し、ポール・マッカートニーと「レノン=マッカートニー」としてソングライティング・チームを組み、多くの楽曲を作曲しました。1965年にはMBE・大英帝国第5級勲位を受章しました。1970年のビートルズ解散後はアメリカを主な活動拠点とし、ソロとして、また妻で芸術家のオノ・ヨーコと共に活動しました。1975年から約5年間音楽活動を休止した後、1980年に活動を再開するも、同年12月8日ニューヨークの自宅アパート前において銃撃され死亡しました。

彼の子供時代は貧困と苦難に満ちており、救貧院に何度も収容される生活を送りました。やがて舞台俳優や芸人としてミュージック・ホールなどの舞台に立ち、19歳で名門のフレッド・カーノー劇団と契約しました。そのアメリカ巡業中に映画業界からスカウトされ、1914年にキーストン社で映画デビューしました。チャップリンはすぐに小さな放浪者を演じ始め、自分の映画を監督しました。その後はエッサネイ社、ミューチュアル社、ファースト・ナショナル社と移籍を重ね、1919年にはユナイテッド・アーティスツを共同設立し、自分の映画を完全に管理できるようにしました。1920年代に長編映画を作り始め、『キッド』(1921年)、『黄金狂時代』(1925年)、『街の灯』(1931年)、『モダン・タイムス』(1936年)などを発表しました。『独裁者』(1940年)からはトーキーに完全移行しましたが、1940年代に私生活のスキャンダルと共産主義的傾向の疑いで非難され、人気は急速に低下しました。1952年に『ライムライト』のプレミア上映のためロンドンへ渡航中、アメリカへの再入国許可を取り消され、それ以後は亡くなるまでスイスに定住しました。1972年に第44回アカデミー賞で「今世紀が生んだ芸術である映画の製作における計り知れない功績」により名誉賞を受賞しました。

トレードマークのメガネ

ジョン・レノンはもともとメガネをかけるのを嫌っていましたが、映画「ジョン・レノンの僕の戦争」の撮影中に丸メガネをかけるようになり、それ以降好んで丸メガネをかけるようになりました。彼が愛用していたメガネのブランドは主に「Savile Row」と「白山眼鏡店」です。イギリスの老舗メガネブランド「Savile Row」のメガネは、彼が最初に手に入れたもので、その後もカスタムオーダーで使用していました。また、日本の「白山眼鏡店」のメガネも気に入り、特に「メイフェア」というモデルを愛用していました。彼が命を落とした1980年12月8日のその瞬間にかけていたメガネも、この「メイフェア」だったと言われています。

日本が大好き!?日本との関係とは

ジョン・レノンは日本と深い関わりがありました。彼の日本人とのつながりとして最も重要なのは、彼の妻であるオノ・ヨーコです。二人は1966年にロンドンのインディカ・ギャラリーで開かれていたヨーコの個展で出会い、その後1969年に結婚しました。二人の間には二人の息子が生まれています。また、彼は日本の芸術家や著名人とも交流がありました。例えば、加山雄三、横尾忠則、内田裕也・樹木希林夫妻、星加ルミ子などと交流を持っていました。彼の音楽にも日本の影響が見られます。彼は禅や俳句から影響を受け、その影響は彼の音楽作品にも反映されています。これらの事実から、ジョン・レノンと日本との関係は非常に深いものであったと言えます。

ジョン・レノンの最後

ジョン・レノンの最後の日、1980年12月8日は、彼がニューヨークの自宅、ダコタ・ハウスに帰宅したところを、マーク・デイヴィッド・チャップマンによって銃撃された日でした。その日の午後、レノンは自宅で「ローリング・ストーン誌」のための写真撮影を行いました。その後、レコード・プラント・スタジオでの作業を終えて帰宅する途中、チャップマンと遭遇しました。チャップマンはその日の午前中からダコタ・ハウスの外でレノンを待ち構えており、レノンが帰宅するところを見計らって銃を発砲しました。チャップマンは、チャーター・アームズ社製の.38スペシャル弾用回転式拳銃を使用し、5発の銃弾を発射しました。そのうち4発がレノンに命中し、レノンは重傷を負いました。レノンは市内のルーズヴェルト病院に救急搬送されましたが、到着してすぐに死亡が確認されました。この事件は世界中に衝撃を与え、レノンの死後40年以上経った現在でも、彼の音楽とその生涯は多くの人々に影響を与え続けています

ジョン・レノンの名言集(1)

名言1

僕らは、自分のすばらしさと不完全さのなかで、何よりも自分自身を愛することから学ばなければいけない。

名言2

幸せになることに躊躇してはいけない。

名言3

ビートルズは、ほしいだけの金を儲け、好きなだけの名声を得て、何も無いことを知った。

名言4

楽しんで無駄にした時間は、無駄じゃない。

名言5

黒人そして白人のための、アジア人そしてアメリカ先住民のためのクリスマスなんだ。
すべての戦いをやめようじゃないか。

名言6

みんなが本当に平和を望めば、世界は平和になるんだ。

名言7

根本的な才能とは、自分に何かが出来ると信じることだ。

名言8

解決できない問題なんてないさ。

名言9

僕らの社会は、ばかげた目的のために、あきれた人々によって動かされている。

名言10

もし、すべての人がもう一台テレビを欲しがるかわりに、平和を要求したら、そのとき平和は実現するだろう。

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