落合博満(落合監督)名言の38選!人生や努力などに役立つ落合語録・名言集

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落合博満の肖像画

落合博満さんは、日本のプロ野球界を代表するレジェンドであり、その名言は彼の人生観や哲学を如実に表しています。彼の名言には、「良い時も、悪い時も同じ態度で接してくれた人だけ信じられんだ、そういう人と一生つきあっていきたい。」、まあ、しょうがない」と思うだけでは、しょうがないだけの選手で終わってしまう。」などがあります。

落合博満の人生

項目内容
生年月日1953年12月9日
出身地秋田県南秋田郡潟西村(現・男鹿市)
所属球団ロッテオリオンズ、中日ドラゴンズ、読売ジャイアンツ、日本ハムファイターズ
プロ野球キャリア3度の三冠王
通算2236試合
打率.331
2371安打
510本塁打
監督キャリアリーグ優勝 4回
日本一 1回
落合博満の略歴

落合博満は、1953年12月9日に秋田県南秋田郡潟西村(現・男鹿市)で生まれました。彼は1978年にドラフト3位でロッテオリオンズに入団しました。選手時代は1979年から1998年にかけてロッテオリオンズ、中日ドラゴンズ、読売ジャイアンツ(巨人)、日本ハムファイターズの計4球団に在籍しました。ロッテ時代には史上4人目かつ日本プロ野球史上唯一となる3度の三冠王を達成し、NPB史上最高の右打者の1人とされています。また20世紀最後・昭和最後・右打者最後の三冠王達成者でもあります。2004年から2011年まで中日ドラゴンズの監督を務め、全ての年でAクラス入りを果たし、4度のリーグ優勝・1度の日本シリーズ優勝を達成しています。2013年シーズンオフから2017年1月までは中日のゼネラルマネージャーを務めました。

良い時も、悪い時も同じ態度で接してくれた人だけ信じられんだ

この名言は、人間関係や信頼について、人々が自分に対して一貫した態度を持つことの重要性を強調しています。それは、良い時も悪い時も変わらない態度を持つ人々だけが真の信頼を勝ち取ることができるという考え方です。自分がどのような態度を向けられたかだけではなく、自分自身の対人関係を見直すきっかけにもなります。落合氏の野球を通じて感じた人生観について、この言葉から学ぶことができます。

良い時も、悪い時も同じ態度で接してくれた人だけ信じられんだ、そういう人と一生つきあっていきたい。

落合博満名言

落合博満のエピソード

天才落合博満のその波瀾万丈だが圧倒的な才能が感じられるエピソードをまとめました。

高校時代

落合博満さんの高校時代は、秋田県立秋田工業高等学校で過ごしました。しかし、彼の高校生活は一般的な野球部員のそれとは大きく異なっていました。彼は野球部に入部し、すぐにレギュラーとなり4番を打つことになりましたが、入部から3か月で右肩を壊し、投手を断念し、外野手へ転向しました。しかし、その後、練習嫌いだったことや、上級生から毎日のように殴られるという体育会系の風習に嫌気がさし、練習にはほとんど顔を出さなくなっていきました。彼は大の映画好きで、映画館に入り浸っていました。試合が近づくたびに部員が映画館まで呼び戻しに来て、その都度、野球部に復帰し、たった一週間の練習で四番を打ち、本塁打を量産していました。このような「練習さぼりー大会前の復帰」という「入退部」を8回繰り返しました。しかし、一度も退部届は書いておらず、常に休部状態のままであった。それが許されたのは、落合の野球能力が、誰もが認めるものだったからです。彼の高校時代は、封建的な体育会系の上下関係に馴染めず、自分の道を切り開くためには一筋縄ではいかない困難さを経験した時期でした。それでも彼は自分の信じる道を進み、最終的にはプロ野球選手となり、その才能を存分に発揮することができました。

大学中退とプロボーラーの夢

落合博満さんの大学時代は、東洋大学野球部に進学しましたが、高校時代と同様に野球部の封建的な体質に嫌気がさし、わずか3カ月で退部しました。その後、大学自体も半年で中退しました。大学の監督は「復帰は2年生になってからでもいいから」と慰留に努めましたが、それを振り切っての中退であった。大学中退後、郷里の秋田県に戻り、実兄が支配人をするボウリング場でアルバイトを始めました。この経験がきっかけで、ボウリングに熱中し、プロボウラーを目指すようになりました。彼のボウリングの腕前は非常に高く、日本国内初の女子プロボウラーである須田開代子のもとに、飛び切りうまい若者がいるとの噂が届くほどでした。しかし、交通違反の罰金でプロボウラー試験の受験料を失い、試験を受けられなくなりました。これらの経験を経て、落合博満さんは再び野球の道を目指すことになり、最終的にはプロ野球選手となりました。

社会人時代とプロ入りまでの道

落合博満さんは、東洋大学をすぐに中退した後、故郷の秋田に戻り、兄がボウリング場の支配人をやっていたことからボウリングにのめり込みました。その後、20歳を機に秋田工時代の恩師に相談し、1974年1月に東芝府中に入社しました。東芝府中では「電力システム制御部電力配電盤課」に配属され、「仕事は朝の8時10分から(夕方)5時までやって、それからの練習だった」と語っています。そして、1978年のドラフトでロッテから3位指名を受け、プロ入りするまで、社会人を4年以上経験しました。このように、東芝府中時代からプロ入りまでの道のりは、多くの経験と努力が詰まっています。

三度の三冠王と信子夫人の激励

落合博満さんが三冠王を獲得した背景には、夫人である落合信子さんの大きな影響がありました。落合さんが初めて三冠王を獲得した1982年、その成績は打率.367、本塁打32本、打点114と、それぞれの部門でリーグトップでしたが、特に本塁打数は前年の本塁打王の44本よりも12本少なく、一部からは「史上最低の三冠王」と揶揄されることもありました。しかし、夫人の信子さんは落合さんに対して、「悔しいのなら三冠王をもう一度獲れ。そしたら(三冠王を二回獲った)王さんに並ぶよ」と激励しました。その結果、1985年には打率.367、本塁打52本、打点146という圧倒的な成績で3年ぶりの二度目の三冠王を獲得しました。また、信子さんは落合さんが試合でノーヒットの時は、必ずオカズにタコを出していました。野球用語でタコは凡打を意味するため、野球選手はゲンを担ぐためタコは食べないと言われていますが、信子さんは逆にそれを食べさせることで落合さんのスランプを脱する手助けをしました。さらに、信子さんは落合さんの食事にも気を配り、特に体重を増やすために食事の量を増やすように努めました。その結果、落合さんの体重は10㎏近く増え、打球の飛距離が格段に伸びました。

「東尾への報復ピッチャー返し」の真実

落合博満さんと東尾修さんの間で起きた「頭部死球→ピッチャー返し」の伝説は、実は40年以上も誤解されていた事実があったようです。このエピソードは、1982年6月21日の西武―ロッテ戦(平和台)で、8回に落合さんのピッチャー返しが東尾さんの肩に直撃したことから始まります。その後、7月7日の西武―ロッテ戦(平和台)の5回、東尾さんの投球が落合さんの頭部への死球となり、落合さんは救急車で運ばれました。しかし、これらの出来事は、一部のメディアで順序を逆に編集され、頭部への死球を受けた後にピッチャーライナーを打ったという伝説が広まりました。この伝説は、落合さん自身も事実として受け入れていました。しかし、実際には、ピッチャーライナーを打ったのは頭部への死球の前だったという事実が明らかになりました。これを知った東尾さんは、「てっきり俺がぶつけて、その後、仕返しされたと思ってたもん」と驚きを隠せなかったといいます。このエピソードは、野球の世界でも誤解が生じることがあることを示しています。そして、それが何十年もの間、誤解として伝えられてきたことは、非常に興味深い事実です。

落合監督として

落合博満さんが中日ドラゴンズの監督を務めていた時代、彼のキャンプは「鬼のキャンプ」と呼ばれ、その厳しさで知られていました。2004年に中日の監督に就任した落合さんは、その初年度からリーグ優勝を果たし、その後もリーグ優勝4回、日本一1回という常勝チームを作り上げました。その成功の土台となったのが、彼の指導による秋季キャンプでした。落合さんのキャンプでは、朝7時から日が暮れてボールが見えなくなるまで練習が続けられ、その過酷さから「鬼のキャンプ」と称されました。彼は「10%の底上げ」を目指し、「うまくするためには、そうせざるをえない。普通のことをやってたら、普通で終わっちゃう」という信念を貫きました。また、彼は試合のない月曜日も単なる調整日とはせず、選手たちに厳しい練習を課しました。その理由について、「どんだけ頭で理解してそれができても体力がなければ、それが発揮できなくなるんでね。まず年間通してやるだけの体力をつけるのが、うまくなる秘けつだろうということで体力強化から」と語っています。このように、落合さんの「鬼のキャンプ」は、選手たちの体力強化と技術向上を目指したもので、その結果として中日ドラゴンズは強豪チームとなりました。

落合博満の家族

歴代最強のプロ野球選手との呼び声も高い落合博満ですが、そんな彼の記録は家族の支えもあってこそでした。彼の家族についてエピソードと共にまとめてみました。

信子夫人

落合博満さんと信子夫人の馴れ初めやエピソードは、非常に複雑で大胆な恋愛からです。落合さんはロッテオリオンズ時代に鹿児島でキャンプを行っていた際、地元の女性と知り合い、結婚に至りました。しかし、その結婚は長くは続かず、スピード離婚となりました。その後、落合さんが30歳の時、9歳上の信子夫人と再婚しました。落合さんは信子夫人に一目惚れし、彼女と会ったその日に結婚すると直感したそうです。信子夫人は、落合さんと出会った1980年頃にホステスとして働いていました。彼女は落合さんがロッテの選手でまだ一軍半であった時期、自身が経営するスナックバーの常連客でした。信子夫人は落合さんに対して「才能のあるアンタが何で年俸360万円なの? 私よりも稼ぎが少ないじゃない!」と揶揄しながらも、「アンタはプロ野球選手として一体何を目指しているの?」と問い質しました。これに対し、落合さんは「三冠王になりたい」と答えたそうです。信子夫人は、落合さんの食生活を改善するために、食事の買い出しに一緒に行く作戦を立てました。これにより、落合さんの偏食が改善され、体重が増え、打球の飛距離が格段に伸びたと言われています。また、信子夫人は落合さんがスランプに陥った時に、「ストライクはあの狭いホームベースの上を必ず通るんでしょ。じゃあそこを通ったボールだけを打てばいいんじゃないの?」とアドバイスをしたところ、次の日から落合さんはスランプを脱したというエピソードもあります。信子夫人は、落合さんがプロ野球選手として偉業を成し遂げた背後には、彼女のサポートがあったと言えます。信子夫人のジョークが落合さんを奮起させ、二度目の三冠王を達成させたのです。現在は落合さんのYouTubeチャンネルにも登場し、素敵な夫婦の掛け合いを見せています。これらのエピソードから、信子夫人の強い支えが、落合さんの野球人生を大きく支えていたことが伺えます。

息子 福嗣君

落合福嗣は、プロ野球界のレジェンドである落合博満の息子で、現在は声優として活躍しています。彼の幼少期には、様々なエピソードが語られ、その中には「部屋でおしっこを漏らした」「札束をバラまいた」「アナウンサーの胸を揉んだ」など、悪童としてのエピソード多いですしかし、これらのエピソードは、彼が父親との貴重な時間を守るために、マスコミやファンを撃退しようとした結果だったと本人は語っています。彼の父親はプロ野球選手であり、試合や移動で忙しく、父親と過ごす時間は限られていました。そのため、彼は父親との時間を大切にし、邪魔する大人たちを撃退するために様々な行動をとったのです。

落合博満の名言集(1)

名言1

良い時も、悪い時も同じ態度で接してくれた人だけ信じられんだ、そういう人と一生つきあっていきたい。

名言2

「まあ、しょうがない」と思うだけでは、しょうがないだけの選手で終わってしまう。

名言3

欠点を直すこと、それはよい部分が失われることでもある。

名言4

どうやってこのチームを、強くするしか考えていない。
預かった以上は、俺のやり方でやる。
周囲の声は、俺には関係ない。

名言5

打率だけ狙うなら4割を打つのは簡単だ。
でも3つ全部取らなきゃ意味がないから。

名言6

理由をきちんと説明して納得させることができれば、どんな選手にも正しくやらせることができる。

名言7

40本塁打してくれる大砲が貴重な戦力なら、送りバントを100パーセント決めてくれる選手も大切な戦力だ。

名言8

上司という立場にいるのなら、任せる部分はきちんと部下に任せておいて、あとはうまくそれらを機能させるというやり方を取るべきだ。

名言9

自分の好き嫌いで選手を使ってはダメ。
自分で自分のクビを絞めることになる。
勝負は勝たなくてはいけない。
勝たなきゃみんな納得しないでしょ。

名言10

悪いとわかっていても、人間がどうしても捨てられないものに先入観がある。

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