手塚治虫の名言37選!「人を信じよ、しかし、その百倍も自らを信じよ。」など

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手塚治虫の肖像画

手塚治虫は、1928年11月3日に大阪府豊中市に生まれ、1989年2月9日に亡くなりました。彼は漫画家、アニメーター、アニメ監督として活躍し、「漫画の神様」と称されるほどの偉大な人物でした。彼は戦後日本においてストーリー漫画の第一人者として、漫画表現の開拓者的な存在として活躍しました。彼は、その作品だけでなく、彼の言葉でも世界中の人々を魅了し続けています。彼の名言には、「インプットがないのに、アウトプットは出来ません。」、「子どもに殺しを教えることだけはごめんだ。世界中の子どもが正義だといって殺しを教えられたら、いつか世界中の人間は全滅するだろうな。」、「人を信じよ、しかし、その百倍も自らを信じよ。」などがあります。

人を信じよ、しかし、その百倍も自らを信じよ。

手塚治虫 名言

手塚治虫の人生

項目情報
本名手塚 治
ペンネーム手塚 治虫
ペンネームの読み方てづか おさむ
生年月日1928年11月3日
出生地大阪府豊中市
死亡日1989年2月9日
死亡地東京都千代田区
死因肺動脈血栓
職業漫画家、アニメ監督、医師
主な作品新寶島、ジャングル大帝、鉄腕アトム、リボンの騎士、火の鳥、どろろ、ブッダ、ブラック・ジャック、三つ目がとおる、アドルフに告ぐ
手塚治虫の略歴

手塚治虫は、1928年11月3日に大阪府豊中市に生まれ、3人兄弟の長男として育ちました。彼は5歳の時に兵庫県川辺郡小浜村(1954年に宝塚市となる)へ引っ越し、その後上京するまで宝塚で過ごしました。彼は開放的な家庭で育ち、漫画とアニメーションに親しみ、機智に富んだ想像力豊かな少年でした。また、昆虫をこよなく愛し、ファーブルを思わせる少年でもありました。彼自身のペンネームに「虫」という字を当てたことでも、その興味の程がわかります。彼は戦争体験から生命の尊さを深く知り、医学の道を志して後年医学博士になりましたが、結局彼自身が一番望んだ職業を選びました。すなわち漫画家、アニメーション作家です。手塚治虫が創作した漫画とアニメーションが、第2次世界大戦後の日本の漫画・アニメ界、また青少年の精神形成の過程で果たした役割は計り知れません。手塚は、それまでの我が国の漫画の概念を変え、数々の新しい表現方法でストーリー漫画を確立し、漫画を魅力的な芸術にしました。また、彼の作品は、文学や映画をはじめ、あらゆるジャンルに影響を与えました。手塚治虫は1989年2月9日に60歳で亡くなりました。彼は偉大な文化の創造者であり、立ち止ることを知らず、常に大いなる開拓精神と飽くなき情熱と未来を見つめる確かな眼差しを持って、その生涯を走り抜けました。

手塚治虫のエピソードや功績まとめ

手塚治虫は何本もの連載を抱え、非常に多忙な中でもその情熱を絶やすことなく作品を産み続けました。そんな彼のエピソードやそのエピソードを象徴する名言を見ていきましょう。その前に、皆さんに彼が生涯を通して貫いてきた素晴らしい考え方を共有します。

実は医者だった!?漫画家と医学生の二足のわらじ

手塚治虫は、日本を代表する漫画家でありながら医師の資格も保有していました。彼が医師国家試験を受ける前にはすでに漫画家としてデビューしており、その後も医師としての勉強を続けながら漫画を描き続けるという、並行した活動を行っていました。その多忙なスケジュールの中でも、彼は常に漫画に対する情熱を持ち続け、その情熱が彼の作品に生きています。また、彼は医師としての知識を生かして、科学的な視点を取り入れた作品を多く描いており、ブラックジャックなどがこの典型です。残念なことに医師免許取得後に医師としての勤務歴はなく、多忙な売れっ子漫画家では同じく多忙な医師として活動することはできなかったのでしょう。そんな自身の生き様についてこのように述べています。

医者は生活の安定を約束していた。
しかし、僕は画が描きたかったのだ。

https://kabushikihakushi.com/2023/08/17/osamu_quotes-page-3/

ペンネームと本名

手塚治虫のの本名は「手塚治」で、明治天皇の誕生日である11月3日に生まれたことから「治」と名付けられました。ペンネームの「治虫」は一般的には「おさむ」とは読めませんが、彼が虫が大好きだったことから「虫」の字を加えて「治虫」となりました。また、彼が小学校の頃から昆虫採集をしていたことから、その頃から「治虫」という名前を使っていたとも言われています。このあだ名をつけてくれたのは、彼の友人だった石原クンとされています。しかし、手塚治虫自身がペンネームを自らつけたとも言っていることもあります。彼のサービス精神が旺盛な性格から、場面によって楽しく話すのでしょう。

睡眠時間は一時間!?多忙な毎日

手塚治虫はその生涯で約15万枚の漫画原稿を描き、作品のタイトル数では700余りを描いたと言われています。そのため、彼はほとんど寝ずに漫画を描いていたとされています。彼が寝ていたのは3日で3~4時間だったと言われています。彼は常に複数の仕事を抱え、締め切りに追われていました。そのため、彼は移動中の車内でもネームを入れることがよくあり、その際にはアシスタントが同乗して指示を聞くこともありました。そんな手塚治虫は「一日1時間寝れば後はコーヒー飲めば持ちますけどね」と言った伝説が残っています。彼は睡眠時間を削ってでも仕事をこなし、そのためにコーヒーを飲んで眠気を覚ましていたのです。そんな彼が自虐風に自身を語った名言があります。

睡眠は三日間で三時間。
こんなつらい仕事を四十年続けるなんて、馬鹿じゃないとできないですよ。

https://kabushikihakushi.com/2023/08/17/osamu_quotes-page-2/

神様を超えてはいけない!?手塚治虫の原稿料

手塚治虫は、日本の漫画界で「漫画の神」と称される存在です。彼の生前の原稿料は1ページあたり最高で10万円だったと言われています。そのため、漫画家の原稿料はどんなに上がっても10万円までという不文律が漫画界に存在するとされています。これは「誰も神を超えてはならない」という考えから来ているようです。新人漫画家の場合、1ページあたりの原稿料はおおよそ5000円から1万円が相場とされています。そして、その後キャリアを重ねていくことで原稿料が上がっていくという形になります。ただし、原稿料が上がるとはいえ、手塚治虫の生前の原稿料である10万円を超えることはないとされています。そんな神様の最後の言葉が次になります。漫画に対するとてつもない執念が伺えますね。

頼むから仕事をさせてくれ

https://www.huffingtonpost.jp/entry/tezuka-osamu_jp_62030e84e4b08357089924ec#:~:text=「寝かせようとしても、必死,と後に振り返っています%E3%80%82

名言「人を信じよ、しかし、その何倍も自らを信じよ」

手塚治虫のキャリアの初期には、漫画がまだ社会的に低く見られていた時期もありましたが、自分のビジョンを信じ続けました。その結果、彼は漫画とアニメーションの世界に革命をもたらし、多くの後続のクリエイターに影響を与えました。創造的なプロセスには、多くの批判や疑念が伴いますが、自分を信じる力があるならば、それらを乗り越えて素晴らしい作品を生み出すことができる、という手塚の教えが込められています。

人を信じよ、しかし、その百倍も自らを信じよ。

https://kabushikihakushi.com/2023/08/17/osamu_quotes-page-3/

手塚治虫の名言集(1)

名言1

日本の明日を担う子供達に、こんなものを読ませるのですか?

名言2

インプットがないのに、アウトプットは出来ません。

名言3

子どもに殺しを教えることだけはごめんだ。
世界中の子どもが正義だといって殺しを教えられたら、いつか世界中の人間は全滅するだろうな。

名言4

数えきれないほど、悔しい思いをしてきたけれどその度にお袋の「我慢しなさい」って言葉を思い浮かべて、なんとか笑ってきたんです。

名言5

仮病は、この世でいちばん重い病気だよ。

名言6

仕事に強い信念と情熱を長く持ち続けられる女性。
しかも世の中すべてに、やさしい愛を注げる心の広い女性…。
それをぼくは望みます。

名言7

人の後をついていたら安全というのは、この世界じゃ通りません。

名言8

合理化はゆとりや遊びの空間を消して、むしろ人を遠ざけることになります。

名言9

漫画に必要なのは風刺と告発の精神である。

名言10

人の命なんて、心配してもしなくても、終わる時には無情に終わるもの。

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