明智光秀の名言7選!”敵は本能寺にあり!”

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明智光秀の肖像画

明智光秀の名言は、彼の深遠な思考と豊かな人間性を反映しています。彼の名言には、「敵は本能寺にあり」「心しらぬ 人は何とも 言はばいへ 身をも惜まじ 名をも惜まじ」などがあります。彼の人生と共に名言を振り返っていきましょう。

明智光秀ってどんな人?

明智光秀は1528年に美濃の明智家に生まれました。しかし斎藤道三の息子である斎藤義龍との戦いで、光秀の父親の居城「明智城」が陥落してしまい、明智家は離散したそうです。その後、朝倉義景を頼り朝倉家で仕えるようになるも、朝倉家中ではなかなか活躍の機会を得られず極貧であったと言われています。その後は足利義昭の元に転職しますが、実権を持たない義昭一人では何もする事が出来ず、なかなかこちらでも活躍の機会は得られません。最終的に経緯は不明なれど織田信長に仕官する事となります。元々の主家斎藤家のお家騒動に始まり、その後は暫く不遇な思いをしますが、信長に仕え始め運気が回って来たと言えましょう。信長の正室は斎藤家の姫で従姉妹の濃姫だったので、そのつてを頼ったとも言われています。力がある者であれば身分を気にしないと言う信長の方針もその手助けとなったのかもしれません。信長に仕官後もそれなりに信頼されたのは実績を残してこそでしょうが、信長の正室 濃姫 の口添えがあったと推測されます。 丹波国を平定した際には、信長からその仕事ぶりを称賛され、丹波一国を任された他南山城を渡されました。 それにより石高は、 34 万石となり一時の極貧生活とは打って変わって 大出世を遂げました。しかし最後は本能寺の変で信長を裏切っており、謎多き人物です。

項目内容
名前明智光秀
生年1528年
出身地美濃国
主な役職織田信長の家臣
主な業績丹波国平定、南山城領有、本能寺の変
死亡年1582年
明智光秀の略歴

幼少期

明智光秀は1533年、尾張国犬山の明智家に生まれました。父は織田家の家臣・明智満兼、母は朝倉家の出身でした。幼少の頃から聡明な資質を評価され、「頭がいい」ともっぱらの評判でした特に古典の学習に熱心で、読書家であると同時に学者の素養もあったと言われています。忍耐強く几帳面な性格も光秀の特徴でした。一方で、生まれつき坊主頭(はげ)だったことが災いし、のちに主君の織田信長から散々な揶揄を受けることになります。これが後の恨みの根源にもなったとされています。(諸説あり)このように、光秀は幼少期から有能な資質を認められながらも、外見的な理由で信長の嘲りを受ける辛い経験もしていました。しかし、そんな逆境を乗り越えて、のちには家臣からひとりの主君へと成長することになるのです。

桶狭間の戦い

桶狭間の戦い

永禄3年(1560年)5月19日に発生したこの戦いは、駿河・遠江・三河を領有する大大名『今川義元』を破り、『織田信長』が台頭する契機となった有名な合戦です。信長の父『信秀』の代から不仲だった織田家と今川家。信秀が亡くなると、国力で劣る織田の家臣たちの中から、今川へ寝返る者が続出しました。このような状況の中、信長は今川家と戦うことを決意、それに応戦する形で義元が挙兵したとされています。今川義元は2万5千人とも言われる軍勢を率い進軍を開始した今川勢は、5月13日に遠江(静岡県西部)の掛川城に入城。さらに進軍し、5月16日には三河(愛知県東部)岡崎城に到着。翌17日には先に出陣していた先発隊が、織田領である尾張(静岡県西部)に侵攻。さらに翌18日には、今川軍本体が尾張に侵入。今川軍が、織田家の丸根砦、鷲津砦に攻撃を開始。この報に対し、信長が出陣命令を発した後、重臣たちに先駆け一人で出撃。後に熱田神宮で家臣と合流し戦勝を祈願、士気を大きく鼓舞しました。中島砦を出てから約1時間後、桶狭間山に到着した織田軍が今川義元の本体を急襲。戦勝ムードに浸り、完全に油断していた今川軍は大混乱に陥りました。退却する今川軍に肉薄した織田軍の『服部小平太』が、義元を襲撃。義元は応戦し反撃しますが、続いて襲い掛かってきた『毛利新介』の攻撃により落命。

本能寺の変

本能寺の変

1582年6月、京都の本能寺で衝撃的な出来事が起こりました。それは、家臣の明智光秀が主君の織田信長を襲撃し、信長が自害に追い込まれた「本能寺の変」です。この事件を起こした光秀の動機は、信長の専横な振る舞いと自身の窮地があったからだと言われています。前年の天正10年、光秀は越前国丹生郡の知行を打ち渡されていました。しかし、この地は非常に疲弊しており、光秀は領地経営に窮していました。そこで、知行地の変更を信長に願い出ますが、拗ねた信長は「はげにふさわしい」と嘲り、要求を退けられてしまいます。また、信長の振る舞いも専横を極め、家臣の志を潰すようになっていました。美濃国の朽木氏一族が残虐に虐殺されたことにも憤りを抱いていたと伝えられています。こうした窮地と恨みから、光秀は最終的に信長を襲撃する決意を固めました。更家の者に扮した一行が本能寺に忍び込み、籠城中の信長を射殺。そして放火に荼毘に付すという大暴挙に出たのです。主君に背き、裏切りの烙印を押された光秀。しかし、光秀自身は主君の振る舞いに憤りを抱いていただけに、自らの行為は正当化されていたのかもしれません。

織田信長の名言とエピソード

明智光秀の名言集(1)

名言1

心しらぬ
人は何とも
言はばいへ
身をも惜まじ
名をも惜まじ

名言2

自分は他の誰でもない煕子殿を妻にと決めている。

名言3

仏のうそは方便という。
武士のうそは武略という。
土民百姓はかわゆきことなり。

名言4

瓦礫のように落ちぶれ果てていた自分を召しだしそのうえ莫大な人数を預けられた。
一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない。

名言5

順逆二門に無し
大道心源に徹す
五十五年の夢
覚め来れば
一元に帰す

名言6

敵は本能寺にあり

名言7

時(土岐)は今
雨が下しる(天が下知る)
五月哉

 

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