山岡鉄舟の名言22選!どんな人?彼の逸話や家族、その最後についても紹介

山岡鉄舟のエピソードと名言をまとめたブログのアイキャッチ画像 偉人名言集

勝海舟・高橋泥舟と並び「幕末の三舟」と呼ばれた山岡鉄舟彼といえば徳川慶喜の遣いとして西郷隆盛と交渉し、主人の身の安全の保証と江戸城の無血開城を実現した人物です。彼の名言には、「腹痛や 苦しき中に 明けがらす」という言葉があります。これは彼の世辞の句とも知られ、「腹痛の痛みに耐えているうちに世が明けた」という意味であり、何か物事を行う際の痛みもいずれは解決するであろうというメッセージです。

そんな激動の時代を生きた彼の逸話や名言から私たちの人生に役立つ知恵を探っていきましょう!

山岡鉄舟ってどんな人?

項目内容
生年月日1836年7月23日
死亡日1888年7月19日
年齢享年53歳
死因胃がん
職業幕末の幕臣、剣術家、明治期の官僚、政治家
主な業績「江戸無血開城」の交渉役として新政府との交渉を取りまとめ、明治天皇の侍従を務めた

山岡鉄舟は、日本の幕末の幕臣、剣術家、明治期の官僚、政治家でした。彼は1836年7月23日に生まれ、1888年7月19日に亡くなりました。彼は非常に武術に長けており、その腕前は自ら道場を開き、新たな剣術の流派を生み出すほどでした。幕末にはその肝の据わった性格を買われ、江戸幕府の交渉役として新政府との交渉を取りまとめる働きをしました。鉄舟がなしとげた最も大きな仕事は戊辰戦争で薩摩藩、長州藩の新政府と江戸幕府の間で戦争が勃発しそうになった時に西郷隆盛との間で交渉をとりまとめる役割を果たしたことです。江戸幕府の時代が終わり、明治時代になってからは西郷隆盛の頼みで明治天皇の世話役、護衛の侍従として働きました。このようにもとは敵対していた立場の西郷からも信頼されているように、立場問わず多くの人たちから相当に信頼されていたことが伺えます。山岡鉄舟は、「江戸無血開城」のために命を賭けて行った参謀・西郷隆盛との事前会談について、維新の功績を調査する政府の賞勲局には報告しませんでした。鉄舟の後で西郷と最終的な会談を行った勝海舟との間で手柄争いになるの避け、功績を勝に譲ったのです。ただ、その後も勝が鉄舟の臨終を見舞っていることなどから、2人の間が険悪だったわけでもなさそうです。山岡鉄舟は明治二十一年七月十九日、数え年五十三歳で大往生しました。彼が亡くなった後も彼を慕う人々が多く、その中には殉死を考える者や墓前で長時間過ごす者もいました。これらは山岡鉄舟がどれほど多くの人々から尊敬されていたかを示しています。

江戸無血開城

山岡鉄舟は、江戸無血開城の立役者として知られています。彼は徳川慶喜から直々に使者として命を受け、新政府軍の駐留する駿府に赴き、西郷隆盛と面会しました。その交渉により、江戸無血開城への道が開かれました。江戸無血開城に向けて鉄舟は西郷隆盛と交渉し、西郷から5つの条件を提示されました。その中で最後の条件、徳川慶喜を備前藩に預けるというものを鉄舟は拒みました。その結果、西郷は鉄舟の主張を認め、慶喜の身の安全を保証しました。

山岡鉄舟と明治天皇との関係

山岡鉄舟は、明治天皇の侍従として、天皇の側近として活動しました。彼の剛直な性格は明治天皇から高く評価され、深い信頼関係が築かれました。また、鉄舟は天皇の深酒を厳しく諌めるなど、侍従としての務めを果たしました。彼らの間には相撲に関する議論から生じた葛藤もありましたが、これは鉄舟の禅への傾倒や仏教的な思想が表面化した結果であり、彼らの信頼関係を揺るがすものではありませんでした。山岡鉄舟と明治天皇の関係は、互いの尊敬と信頼に基づいていました。

妻、英子氏との関係

山岡鉄舟の妻は英子(ふさこ)という名で、山岡静山(鉄舟の師匠、幕臣)の妹でした。静山の急死後、静山の実弟・謙三郎(高橋泥舟)らに望まれて、鉄舟は英子と結婚し、山岡家の婿養子となりました。二人の間には直己という息子と、鈴子という娘がありました。鉄舟は、この二人の間の4男として生まれています。鉄舟の娘の鈴子は、伊勢桑名藩の知藩事であり、官僚でもあった松平定教に嫁いでいます。栄子という娘のほかに夫である定教の養父である定敬の四男・定晴が養子となってあとを継ぎました。また、鉄舟は女性との関係が多く、庶子がいた可能性も指摘されています²。しかし、その詳細は不明です。

山岡鉄舟の最後

山岡鉄舟の最後の日々は、彼の人生の締めくくりとして、その誠実さと尊厳を象徴しています。明治維新後も活動的で、一刀正伝無刀流を立ち上げ、維新に殉じた人々の菩提を弔うために全生庵を建立しました。1888年7月19日に胃がんにより53歳で亡くなり、その最期は、皇居の方向に向かって座禅を組んだまま、静かに息を引き取ったと言われています。彼の葬儀は、彼が生前に建立した全生庵で行われ、明治天皇が高殿から鉄舟の葬列を見送ったと伝えられています。彼の世辞の句は「腹いたや 苦しき中に 明けがらす」と言われています。

山岡鉄舟の名言集(1)

名言1

鉄舟「修身二十則」
(鉄舟が満13歳の時に自身に課した人生訓)
一 嘘を言うべからず候
二 君の御恩は忘るべからず候
三 父母の御恩は忘るべからず候
四 師の御恩は忘るべからず候
五 人の御恩は忘るべからず候
六 神仏ならびに長者を粗末にすべからず候
七 幼者をあなどるべからず候
八 己れに心よからざることは、他人に求むべからず候
九 腹を立つるは、道にあらず候
十 何事も不幸を喜ぶべからず候
十一 力の及ぶ限りは、善き方につくすべく候
十二 他をかえりみずして、自分のよきことばかりすべからず候
十三 食するたびに、稼穡(種まきと収穫、農業の意味)の艱難を思うべし、すべて草木土石にても、粗末にすべからず候
十四 ことさらに着物を飾り、あるいはうわべをつくろう者は、心に濁りあるものと心得べく候
十五 礼儀を乱るべからず候
十六 何時何人に接するも、客人に接するように心得うべく候
十七 己の知らざることは、何人にても習うべく候
十八 名利のために、学問技芸すべからず候
十九 人にはすべて能不能あり、いちがいに人をすて、あるいは笑うべからず候
二十 己れの善行を誇り顔に人に知らしむべからず、すべて我が心に恥ざるに務むべく候

名言2

もののふ(武士)というものは、出所進退を明らかにし、確乎として自己の意志を決した以上は、至誠もって一貫するのが、真の武士でまた武士道でもある。

名言3

一国を治めるものは、まず手近く自身からしなければならない。
親子兄弟一族の治めがついて、さしつかえがないというに至ったならば、この秘法はたちまちに万機に応じることができる。

名言4

およそ大凡人たるものは、誠忠が肝要である。
ゆえに時変に接しては死を見ること帰するがごとき確固たる心胆を動かさぬように鍛練が第一である。

名言5

真理であるものは彼とこれとを隔絶分割するものではない。
しかもよくかれこれ相通じて存すること、彼の太陽の幽谷と村落とにへだてないというけれども、しかも幽谷にあっては幽谷を照らし、村落にあっては村落を照らし、決して相違しないようなものである。

名言6

腹痛や
苦しき中に
明けがらす

名言7

金を積んでもって子孫に遺す。
子孫いまだ必ずしも守らず。
書を積んでもって子孫に遺す。
子孫いまだ必ずしも読まず。
陰徳を冥々の中に積むにしかず。
もって子孫長久の計となす。

名言8

宇宙と自分は、そもそも一体であり、当然の帰結として、人々は平等である。
天地同根、万物一体の道理を悟ることで、生死の問題を越え、与えられた責務を果し、正しい方法に従って、衆生済度の為に尽くす。

名言9

晴れてよし
曇りてもよし
富士の山
もとの姿は
変わらざりけり

名言10

道は千載不滅だよ。
いかなる大敵でも、道には勝てぬ。

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