ロダン 心を動かす名言集 – Page 1

オーギュスト・ロダンは、1840年11月12日にフランスのパリで生まれました。彼は、19世紀を代表するフランス人彫刻家であり、「近代彫刻の父」と称されることがあります。彼の代表作には、「地獄の門」やその一部を抜き出した「考える人」などがあります。

彼の名言には、「見ることと感ずることを知る者は、至る所に常に賛美すべきものを見出すだろう。」、「最も美しい主題は君たちの前にある。なぜといえばそれらのものこそ君たちが一番よく知っているからである。」などがあります。

彼の言葉から感じることができる、現代に生きる私たちへの教訓を学んでいきましょう。

ロダンの略歴

項目内容
本名フランソワ=オーギュスト=ルネ・ロダン
生年月日1840年11月12日
出身地フランス、パリ
職業彫刻家
活動期間1864年 – 1917年

オーギュスト・ロダンは、1840年11月12日にフランスのパリで生まれました。彼は、19世紀を代表するフランス人彫刻家であり、「近代彫刻の父」と称されることがあります。彼の代表作には、「地獄の門」やその一部を抜き出した「考える人」などがあります。

ロダンは、パリ在住の労働者階級の子として生まれました。彼は、エコール・デ・ボザールなどの美術の専門教育(アカデミズム)を受けず、特に青年期以降はほとんど独学で彫刻を習得したことで知られています。彼は10歳の時に初めて絵を描いたことで美術に興味を持ち、14歳の時に地元のプティット・エコール(小さな学校)と呼ばれる工芸学校に入校しました。

17歳に工芸学校を退校するまで、ジュール・ダルー、アルフォンス・ルグロなど同年代に活躍する画家や彫刻家とも知り合っていました。プティット・エコールを退学した直後、ロダンは学業継続を望んでエコール・ボザール(グラン・エコール)に入学を志願しました。しかし、ロダンは同窓生をモデルにした塑像を提出したが、ボザールからの評価は不合格だった。諦めずに翌年と翌々年も塑像を提出し続けたが、ボザールからは全く相手にされなかった。

入校を諦めたロダンは室内装飾の職人として働きながら、次の道を模索していました。1863年、ボザール入学を果たせなかったロダンに追い討ちをかけたのが姉マリアの死でした。ロダンを経済的に支えていた姉は、恋人との失恋劇で精神を病み、俗世を捨てて修道女になっていました。その姉が体調を崩して修道院で病没すると、姉の恋人を最初に紹介したロダンは激しい罪悪感に苦しんだという。

修道会を離れたロダンは動物彫刻の大家であったアントワーヌ=ルイ・バリーに弟子入りして、深い影響を受けました。また24歳の時には生涯の妻となる裁縫職人のローズと知り合い、長男オーギュスト・ブーレ・ロダンをもうけているほか、装飾職人としての労働も再開しました。

普仏戦争が勃発すると彼も徴兵対象となりましたが、近視であったことから兵役を免れました。それでも戦争の影響で仕事が減って生活が苦しくなり、30歳までロダンは家族を養うだけの稼ぎを持てなかった。職を求めて新天地に向かうことを決めたロダンは家族とベルギーへ移住して、そこで知り合いの紹介でブリュッセル証券取引所の建設作業に参加しました。

ロダンは当初は仕事が終われば早々に切り上げてフランスに戻るつもりだったが、様々な理由から6年間滞在を続けました。ベルギー時代は彼の創作活動において重要であったと考えられています。彼は装飾職人として独学で彫刻の技法を修練していたが、展覧会用の作品を作る余裕がなかったために、誰も彼が彫刻家としての夢を抱いていたことを知らなかった。

1875年、職人の親方との関係が悪化したこともあり、ベルギー滞在中に生活費を節約して貯蓄を続けていたロダンはローズを連れて、念願のイタリア旅行へと出かけていきました。そこで目の当たりにしたドナテッロとミケランジェロの彫刻に衝撃を受けたロダンは、多大な影響を両者から受けることになりました。

ベルギーに戻ったロダンは早速イタリア旅行で得た情熱を糧に『青銅時代』を製作、十数年ぶりに彫刻家として活動を開始しました。この『青銅時代』はオーギュスト・ネイトという人物をモデルにした等身大の男性像で、極めて緻密でリアルな作品であった。ところがそのあまりのリアルさのために「実際の人間から型を取ったのではないか」との疑いをかけられ、憤慨したロダンは2年後に人間よりもかなり大き目のサイズの彫刻を新たに作った。型を取ったのではなかったと分かった審査員たちは、ロダンの彫刻に対して賞賛の言葉を送り、ロダンの名は一気にフランス中に広まりました。

1880年、ロダンの元に、国立美術館を建てるので、そのモニュメントを作ってほしいとの依頼が来ました。そのテーマとしてロダンが選んだのがダンテの『神曲』地獄篇に登場する『地獄の門』である。ロダンはこの大作品に取り組むに当たり、粘土や水彩画などでデッサンを重ねていったが、中々構想はまとまらなかった。

この悩める時期に教え子のカミーユ・クローデルと出会い、この若き才能と魅力に夢中になりました。だが優柔不断なロダンは、カミーユと妻ローズの間で絶えず揺れました。数年後ローズが病に倒れ、カミーユがローズと自分との選択を突付けるまで決断できませんでした。

ロダンは、カミーユ・クローデルとの関係が終わった後も、彼女の作品に対する評価を高くし続け、彼女が精神病院に入院した後も、彼女の作品を展示するように努めました。しかし、カミーユは1913年に精神病院に入院し、そこで30年以上を過ごし、1943年に亡くなりました。

ロダン自身も、晩年は健康問題に悩まされるようになりました。彼は1917年に国立ロダン美術館が設立されることを条件に、自身の作品の多くをフランス政府に寄贈しました。そして、1917年11月17日、彼は77歳で亡くなりました。

ロダンは、生涯を通じて多くの傑作を残し、彫刻界に多大な影響を与えました。彼の作品は今でも世界中の美術館で展示されており、多くの人々から愛され続けています。

ロダンの名言集(1)

名言1

見ることと感ずることを知る者は、至る所に常に賛美すべきものを見出すだろう。

名言2

最も美しい主題は君たちの前にある。
なぜといえばそれらのものこそ君たちが一番よく知っているからである。

名言3

芸術の唯一の原則は、見たものをコピーすることである。

名言4

老年は騒音から遠ざかる。
沈黙と忘却に仕える。

名言5

自分が何かをやることさえ確かだったら、少しぐらい待っても何でもない。

名言6

経験を賢く生かすならば、何事も無駄ではない。

名言7

かぶりついて仕事せよ。

名言8

眼が見えるということは一生涯もかかる教育の果実です。

名言9

わたしは大理石の塊を選び、必要としないものは何でも切り落とす。

名言10

家事をしている女、それは世の中で最も美しいものの一つである。

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