島津斉彬の名言10選!”我が身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ”

島津斉彬の肖像画

幕末の激動の時代、一人の男が風雲急を告げる日本の歴史に名を刻みました。その名は島津斉彬。彼の生涯は、幕末から明治初期にかけての日本を駆け抜けた、まさに一世を風靡した男でした。彼の言葉は今もなお、私たちの心に深く響きます。「我が身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」。この言葉は、彼が持っていた強い意志と決断力を表しています。

島津斉彬の人生

項目内容
生年月日1809年4月28日
死亡日1858年8月24日
年齢享年49歳
職業江戸時代後期の大名、薩摩藩11代藩主
主な業績薩摩藩による富国強兵や殖産興業に着手し、国政改革にも貢献した幕末の名君。西郷隆盛ら幕末に活躍する人材も育てた。
島津斉彬の略歴

島津斉彬は、幕末から明治初期の日本の大名で、薩摩藩11代藩主でした。彼は、1809年4月28日に江戸の薩摩藩邸で生まれました。彼の父は10代藩主・島津斉興で、母は弥姫でした。彼は幼少期から洋学に興味を持ち、その影響は曽祖父の8代藩主・重豪から受けたとされています。これが周囲の目に「蘭癖」と映ったことが、皮肉にも薩摩藩を二分する抗争の原因の一つになったとされています。彼が藩主となったのは42歳の時で、その後6年間でペリー来航後の難局を打開するために公武合体や武備開国を主張しました。また、彼は洋学に傾倒し、川本幸民、高野長英、杉田成卿等と洋書の購読・翻訳・研究を行いました。反射炉や軍艦等の建設を始めガス灯・ガラス製造等のため洋式工場を作り、「集成館事業」と命名しました。しかし、彼が48歳の時、将軍後継問題で井伊直弼と対立しました。島津斉彬は、将軍後継問題で朝廷に圧力をかけるため京に兵を上げる計画を立てましたが、その計画が実施される直前に急死しました。その死因はコレラや腸チフスなどが有力ですが、そのあまりに急な死は暗殺説もあります。彼の死後、その遺言により久光の長男・茂久が後を継ぎました。島津斉彬は幕末の名君として知られており、西郷隆盛など幕末に活躍する人材も育てました。

島津斉彬の名言集(1)

名言1

相続はしたが、予は薩摩藩を自分の所有物とは思っておらぬ。
これは辱くも天子さまからお預かりしたものである。

名言2

国中の者が豊かに暮らすことができれば、人は自然とまとまる。人の和はどんな城郭よりも勝る。

名言3

決心した。
内政は横暴に流れながら、諸外国に対しては卑屈極まれる。
志のあるものが奮って尽力せねばならぬ時は迫れり。

名言4

「島津斉彬の訓言」
一、人心の一致一和は、政治の要目なり。
一、民富めば国富むの言は、国主たる人の、一日も忘るべからざる格言なり。
一、人君たる人は、愛憎なきを要す。
一、およそ人は、一能一芸なきものなし、その長所を採択するは、人君の任なり。
一、既往の事を鑑みて、前途の事を計画せよ。
一、勇断なき人は、事を為すこと能わず。
一、国政の成就は、衣食に窮する人なきにあり。

名言5

非常の果断を以て、内外の処分を変ぜざれば、日本を保つこと難しかるべし。

名言6

善行とても前後をよく考えなければ難を呼ぶ。
時が熟するのを待たねばならない。
今、第一に求められているのは堪忍の二字である。

名言7

西郷一人は、薩国貴重の大宝なり。
しかしながら彼は独立の気性あるが故に、彼を使う者は私以外にあるまじく、その外に使う者はあるまじ。

名言8

天下の政治を一変しなければ外国との交渉もできない。

名言9

西洋人も人なり、佐賀人も人なり、薩摩人も人なり。
屈することなく研究に励むべし。

名言10

十人が十人とも好む人材は非常事態に対応できないので登用しない。

 

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