徳川家康の名言40選!「人の一生は重荷を負うて」の全文の意味・読み方など名言解説

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徳川家康肖像画

徳川家康は天下統一を果たし、明治維新までの260年間日本を統治し続けた江戸幕府の基礎を気付きました。彼彼の言葉は、時代を超越し、今日でも私たちに深い洞察と啓示を与えています。彼の名言には、「天下は天下の人の天下にして、我一人の天下と思うべからず。」世におそろしいのは、勇者ではなく、臆病者だ。などがあります。

「人の一生は重荷を負うて」の全文と意味、読み方

徳川家康は人生を重い荷物を背負って遠い道を歩くようなものに例え、焦らずにゆっくりと進むことの重要性を説いています。急ぐことによって失敗や困難を招くことが多いため、慎重に行動することが大切だという教えです。また、生活の中で不自由を当たり前と考えることが、不満や不足を感じない秘訣であるとしています。これは、常に高望みをせず、現在の状況に感謝する心を持つことの重要性を強調しています。欲望が生じたときには、過去の困難な時期を思い出すことが勧められています。これにより、現在の状況がいかに恵まれているかを再認識し、無駄な欲望を抑えることができます。さらに、忍耐は平穏で長い人生の基盤であると述べています。困難や逆境に対して忍耐強く対応することが、安定した人生を築く鍵となります。怒りについては、それを自分の敵と見なすことが重要です。怒りは冷静さを失わせ、判断を誤らせるため、これをコントロールすることが求められます。また、勝つことばかりを知っていて、負けることを知らないと、自分に害を及ぼすと述べています。負けることも経験し、それを学びの機会とすることで、より強くなることができるという教えです。他人を責めるのではなく、自分を厳しく律することの重要性も説いています。自分の行動や態度に責任を持ち、他人の過ちを攻めるのではなく、自分を省みることが大切です。最後に、やりすぎるよりも少し足りないぐらいがちょうど良いと述べています。過剰な行動や欲望は問題を引き起こすことが多いため、節度を持つことが重要だとしています。家康のこの言葉は、慎重さ、忍耐、節度、そして自己反省の重要性を教えており、現代においても大いに参考になる普遍的な教訓です。

人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基。いかりは敵と思え。勝つことばかり知りて、負くることを知らざれば害その身にいたる。おのれを責めて人をせむるな。及ばざるは、過ぎたるよりまされり。

徳川家康 「人の一生は」の全文

読み方
ひとのいっしょうは おもにをおうて とおきみちをゆくがごとし、いそぐべからず。
(人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず。)
ふじゆうをつねとおもえば ふそくなし。

(不自由を常と思えば不足なし。)
こころにのぞみおこらば こんきゅうしたるときをおもいだすべし。

(こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。)
かんにんはぶじちょうきゅうのもとい。

(堪忍は無事長久の基。)
いかりはてきとおもえ。

(いかりは敵と思え。)
かつことばかりしりて、まくることをしらざれば がいそのみにいたる。

(勝つことばかり知りて、負くることを知らざれば害その身にいたる。)
おのれをせめて ひとをせむるな。

(おのれを責めて人をせむるな。)
およばざるは、すぎたるよりまされり。

(及ばざるは、過ぎたるよりまされり。)

徳川家康の人生

徳川家康は、戦国時代から江戸時代初期にかけての日本の武将で、江戸幕府の初代征夷大将軍として知られています。彼は三河国(現在の愛知県)出身で、松平広忠の嫡男として生まれました。家康の人生は、多くの困難と挑戦に満ちていました。彼の人生を幼少期、天下統一まで、天下統一後の三つに分けて解説していきます。

項目内容
生年月日1543年1月31日
死亡日1616年4月17日
出身地三河国(現在の愛知県)
主な業績関ヶ原の戦い(勝利)、江戸幕府の確立
政策鉄砲隊の結成、楽市楽座政策、関所の設置
徳川家康の略歴

家康の幼少期

家康幼少期

徳川家康、本名は松平元康(まつだいら もとやす)、後に徳川姓を名乗ります。1543年1月31日に三河国(現在の愛知県)の岡崎城で生まれました。家康は後の安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名であり、日本を統一する過程で中心的な役割を果たした人物です。

家康の人質時代

今川義元

徳川家康(当時は松平元康)の人質時代は、彼の人生における重要な転機の一つでした。この時期は家康が6歳のときから始まり、今川義元のもとで過ごしました。今川義元は当時、三河を含む広範な地域を支配していた強力な大名でした。松平家が今川家に従属する形を取ることで、松平家は自家の安全を保つ一方で、家康は今川義元から戦術や政治、文化などについて学びました。この人質生活は、家康にとって外交や政治の複雑さを理解する絶好の機会でした。今川義元の下で、家康は戦国大名としての振る舞いや思考を学び、後の政治手腕に大きな影響を与えました。しかし、この期間は家康にとって精神的にも肉体的にも困難な時期であり、若い家康は重圧の中で成長を遂げなければなりませんでした。

帰郷と家督相続

三河地方の解説

家康が15歳で人質生活から解放されて三河に帰郷した後、彼はすぐに家督を相続し、松平家の当主となりました。この時期は三河の統一と、松平家の勢力拡大に向けての重要なステップでした。家康は地元の領主たちとの同盟を結び、また対立する大名との戦いを通じて、自らの領地と権力を確実に拡大していきました。家督相続後の家康は、若くして見せたその政治的、軍事的才能で多くの人々を驚かせました。彼は三河国内での支配を強化し、独立した大名としての地位を固めていきました。また、家康はこの時期に結んだ同盟や関係が、後の天下統一へ向けての大きな資産となりました。

天下統一までの道のり

家督を継いだ家康の天下統一までの激動の人生を振り返ります。「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」で知られる家康がどのようにな戦いを経て天下統一を果たしたのかをまとめます。

桶狭間の戦い後の転換点

桶狭間の戦い

1560年、家康が18歳の時に桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れ死亡しました。今川義元の死は、家康にとって大きなチャンスとなりました。今川家の影響力が低下する中、家康は独立の機会をつかみ、自らの勢力を確立するための行動を起こしました。今川義元の死後、家康は速やかに独立を宣言し、三河の領主たちを統一するための動きを加速させました。また、織田信長との同盟を結ぶことで、家康は自身の地位をさらに固めることができました。この動きは家康が今川家からの圧力を完全に脱し、後の天下統一への道を歩み始めるきっかけとなりました。

徳川家康の独立と信長との関係

織田信長

今川義元の死後、家康は今川家からの独立を決意し、自らの勢力基盤を確立するために動き出します。織田信長との関係は、この時点で急速に進展します。家康は織田家との同盟を選択し、信長の支配下に入ることなく、独立した大名としての地位を保持することができました。この同盟は、両者にとって非常に利益のあるものでした。信長にとっては、東海地方への進出を図る上で家康との同盟が戦略的に重要であり、家康にとっては信長の支援によって自身の地位を固めることができたからです。

本能寺の変と信長の死

本能寺の変

1582年、織田信長は本能寺で明智光秀によって討たれます。この事件は、信長の天下統一の野望を断ち切るとともに、その後継を巡る権力争いの火蓋を切って落としました。秀吉は当時中国地方の戦いに従事していましたが、信長の死を知ると迅速に行動し、山崎の戦いで明智光秀を破り、織田家の実権を掌握することに成功します。

小牧・長久手の戦い

小牧・長久手の戦い

小牧・長久手の戦い(1584年)は、豊臣秀吉が天下統一を進める中で徳川家康との間に生じた衝突であり、織田信長の死後の権力争いの一環として発生しました。秀吉は全国の大名に自らの権力を認めさせようと試みる中、独自の勢力範囲を拡大していた家康がこれに抵抗。秀吉が大軍を率いて東海地方に進軍し、家康が小牧山に本陣を構えて対峙した結果、数ヶ月にわたる戦闘が繰り広げられましたが、決定的な勝者は出ませんでした。この戦いを通じて秀吉は家康を孤立させることに成功し、和解後、家康は秀吉の権威を認めることになります。この事件は、秀吉の天下統一の過程での重要な局面であり、家康の豊臣政権下での立ち位置を決定づけ、両者の間に後の歴史を形作る重要な同盟関係を築く契機となりました。

豊臣秀吉の名言

関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦いは1600年9月15日に行われた、日本史上最大規模の合戦の一つです。この戦いは、豊臣秀吉の死後に起きた権力争い、いわゆる「豊臣政権の後継問題」を背景にしています。秀吉の死によって、その広大な領土と権力を継承するにふさわしい後継者が明らかにされなかったため、秀吉の部下たちの間で争いが起こりました。この戦いは、徳川家康率いる東軍と、石田三成を中心とした西軍に分かれて争われ、現在の岐阜県関ヶ原で激突しました。関ヶ原の戦いの直接的な引き金となったのは、徳川家康の政治的野望と、石田三成による反徳川連合の結成でした。家康は秀吉の下で得た権力を基に、全国統一の機会を伺っていました。一方、三成は秀吉の遺志を継ぐ形で豊臣家の権利を守るため、諸大名を結集して家康に対抗しました。戦いは一日で決着し、家康率いる東軍の圧倒的な勝利に終わりました。この勝利によって家康は事実上の日本統治者となり、後に正式に征夷大将軍に任じられ、260年以上続く徳川幕府の基礎を築きました。関ヶ原の戦いは、その後の日本の歴史に深い影響を与えました。この戦いにより確立された徳川幕府は、政治的安定をもたらし、江戸時代と呼ばれる平和な時代を日本にもたらしました。しかし、この戦いで敗れた西軍の大名やその家臣たちは厳しい処分を受け、その多くが領地を失ったり、家族と離れ離れになるなど、厳しい運命に直面しました。関ヶ原の戦いは、日本の封建体制の変革点となり、徳川家康の政治的見識と軍事戦略の高さを示す出来事として、今日でも語り継がれています。

天下統一と江戸幕府の成立

江戸城

徳川家康が天下を掌握した後、1603年に征夷大将軍に任じられ、江戸を政治の中心とすることで、江戸幕府を確立しました。この時代は日本の長い平和期である江戸時代の始まりを告げ、約260年間続くことになります。家康とその後継者たちは、独自の政治体制を築き、日本全国にわたる厳格な階級制度と統治システムを確立しました。

徳川家康の統治とその特徴

参勤交代

徳川家康の政治戦略の核心は、全国の大名を巧みにコントロールすることにあり、この目的を達成するために独自の制度を確立しました。その代表的なものが参勤交代制度で、これは大名に対して一年おきに自領と江戸で生活することを義務付け、大名が自領地に集中することを防ぎながら、経済的負担を強いると同時に、幕府による監視を容易にしました。さらに、大名を譜代大名と外様大名に分類することで、忠誠度に応じて彼らを管理し、外様大名を戦略的に配置することで彼らの力を分散させました。このように家康は、大名間のバランスを保ちつつ、彼らの行動を監視し、幕府の権威を維持するための緻密な戦略を展開し、徳川幕府の長期にわたる安定した支配基盤を築き上げました。これらの政治戦略は、徳川幕府が約260年もの間、日本を統治し続けることができた主要な要因の一つであり、家康の政治的洞察力と統治術の高さを示しています。

江戸幕府の凄さ

士農工商の図

江戸幕府の最大の特徴は、日本における長期間にわたる内戦と外国の脅威から国を守り、平和を維持したことにあります。幕府は、国内の安定を確保するために、厳格な身分制度を設け、士農工商(農民、武士、商人、職人)といった社会階層を明確に分けました。これにより、社会の秩序が保たれ、経済活動が促進されました。幕府の外交政策も注目に値します。鎖国政策を通じて、外国との接触を厳しく制限し、日本独自の文化と経済を守りました。この政策は、外国の影響から日本を隔離し、国内の平和と安定を維持することに成功しました。ただし、この政策により、日本は西洋の科学技術の進歩から取り残されることになりました。

江戸時代の文化的発展

浮世絵

平和が続いたことで、江戸時代には文化が大いに花開きました。浮世絵、歌舞伎、文学などの芸術が発展し、これらは今日でも日本文化の象徴とされています。また、この時代には農業技術が進歩し、都市部では商業が発展しました。これらの文化的、経済的発展は、江戸幕府の安定した統治のもとで可能となったものです。徳川家康が築いた江戸幕府は、長期間にわたる平和と繁栄を日本にもたらしました。

徳川家康の名言集(1)

名言1

天下は天下の人の天下にして、我一人の天下と思うべからず。

名言2

世におそろしいのは、勇者ではなく、臆病者だ。

名言3

不自由を、常と思えば、不足なし。
心に望み起こらば、困窮したるときを思い出すべし。

名言4

最も多くの人間を喜ばせたものが、最も大きく栄える。

名言5

およそ人の上に立って下のいさめを聞かざる者の、国を失い、家を破らざるは、古今とも、これなし。

名言6

あぶない所へ来ると、馬から降りて歩く。
これが秘伝である。

名言7

平氏を亡ぼす者は平氏なり。
鎌倉を亡ぼす者は鎌倉なり。

名言8

得意絶頂のときこそ隙ができることを知れ。

名言9

いさめてくれる部下は、一番槍をする勇士より値打ちがある。

名言10

怒ったときには、百雷の落ちるように怒れ。

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