岩崎弥太郎の名言・格言18選!三菱財閥の創始者で渋沢栄一のライバル

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岩崎弥太郎の肖像画

幕末から明治初期の日本、一人の男がその時代を駆け抜け、日本の近代化に大きな足跡を残しました。その名は岩崎弥太郎。彼は、三菱財閥の創設者として知られ、その業績は今日まで続いています。彼の名言には、「勤倹身を持し、慈善人にまつべし。」、「奉公至誠の念にすべて寸時もこれを離るべからず。」この言葉は、彼が持っていた強い意志と決断力を表しています。彼の名言について学び、そこから自分の人生に活かせる何かを見つけていきましょう。

岩崎弥太郎の人生

項目内容
生年月日1835年1月9日
死亡日1885年2月7日
年齢享年50歳
職業実業家、政治家
主な業績三菱財閥の創設者として知られ、幕末から明治初期にかけての日本の近代化に大きく貢献した
死因胃がん
岩崎弥太郎の略歴

岩崎弥太郎は、1835年1月9日に土佐国安芸郡井ノ口村一ノ宮(現在の高知県安芸市井ノ口甲一ノ宮)の地下浪人・岩崎弥次郎と美和の長男として生まれました。岩崎家は甲斐武田家の当主武田信光の五男の一宮信隆(武田七郎)の子の岩崎貞隆(五郎貞経)が、甲斐国山梨東郡(東山梨郡)岩崎(現・山梨県甲州市勝沼町)を本拠に岩崎氏を称し、家紋も武田菱に由来するという伝承があります。彼は幼少期から文学の才能を見せており、その実力は土佐藩主に漢詩を奏上し、褒美を賜ったほどでした。しかし、安政2年(1855年)に父が酒席での喧嘩で投獄された際、奉行所に立ち向かいましたが、その結果自身も投獄されました。この時、獄中で同房の商人から学んだ算術・商法が後の人生に影響を与えました。出獄後、彼は藩に取り立てられ、東洋が参政として藩政に復帰するとこれに仕えて藩吏の一員として長崎に出張しました。また、このころ借金をして郷士株を買い戻し、妻・喜勢と結婚しました。明治2年(1869年)10月、土佐藩の首脳・林有造が海運業の私商社である土佐開成社、のちの九十九(つくも)商会を設立しました。弥太郎はここで事業監督を担当し、翌年には土佐藩の少参事に昇進しました。廃藩置県で官職を失うと九十九商会の経営者に就任し、藩船3隻を借り受けて内航事業を開始しました。明治5年(1872年)、九十九商会は三川(みつかわ)商会に改名し、翌年には三菱商会と改称して本拠が大阪から東京・日本橋に移りました。弥太郎は海運業以外にも手を広げて三菱財閥の基礎を築きました。しかし、明治18年(1885年)2月7日、彼は胃がんでこの世を去りました。その壮絶な人生は多くの人々から尊敬されています。

岩崎弥太郎と渋沢栄一の関係

渋沢栄一と岩崎弥太郎は、明治時代の日本を代表する二人の実業家で、日本の経済界をリードしました。しかし、彼らの経営理念は対照的で、そのために対立関係にあったと言われています。渋沢栄一は「合本主義」による経営を採用しました。これは現在の株式会社のように、複数人で資金を出し合い、利益を分配するというものです。彼はこの考え方で、新たな日本の未来を思い描いていました。一方、岩崎弥太郎は、旧土佐藩の資産をうまく利用し、海運業を独占しました。莫大な利益を上げた岩崎氏の経営は、権力を全て自分に集中させるワンマン経営でした。これら二人の対立は、特に海運業をめぐって顕著でした。渋沢栄一は、海運業を独占する三菱に対抗し、共同運輸会社を立ち上げていきました。これらの対立にもかかわらず、彼らの活躍はどちらも日本のためになっていたと言われています。

日本郵船の誕生秘話 渋沢栄一との戦い

岩崎弥太郎は、三菱財閥の基礎を作り上げた実業家で、日本郵船株式会社の創立に関与しました。彼は、土佐藩が設立した九十九商会において内航事業を起こし、その後、1873年に三菱商会と改称しました。その後、政府より日本海運を任されたことを機に、海運部門を郵便汽船三菱会社と改称しました。しかし、郵便汽船三菱会社と、それに対抗すべく誕生した共同運輸会社は、熾烈な競争を繰り広げましたが、この競争は両社を深刻な経営危機に直面させ、政府は両社を合併して新会社を設立する方針を打ち出しました。郵便汽船三菱会社の社長を継いだ弥太郎の弟・弥之助は、政府の新方針を受け入れ郵便汽船三菱会社を解散し、明治18年(1885年)9月には両社の事業・資産を継承して「日本郵船株式会社」が発足しました。その後、明治26年(1893年)に日本郵船株式会社は日本最初の株式会社の一つとして誕生しました。これは、当時の首相伊藤博文が商法に基づいた近代的な会社組織を作るため、手本として日本郵船を選び、定款づくりにあたった結果です。

坂本龍馬との関係

岩崎弥太郎と坂本龍馬は、共に土佐藩出身であり、幕末から明治維新にかけての時代に活躍した人物です。二人の関係は、特に海運事業を通じて深まりました。坂本龍馬は、長崎で貿易会社であり政治組織でもある「亀山社中」を結成し、薩長同盟と大政奉還の成立に大きく貢献しました。一方、岩崎弥太郎は、土佐商会の主任として外国との取引業務をこなし経験を積んでいきました。資金面で海援隊を支える弥太郎は、龍馬とも酒を酌み交わし将来の夢を語り合ったとされています。しかし、龍馬が暗殺された後、弥太郎は海援隊の事業を受け継ぎ、その基盤を元に三菱財閥を築き上げました。このように、二人は同じ土佐藩出身という共通点を持ちつつ、それぞれが独自の道を歩んで大きな影響を与えた人物と言えます。

岩崎弥太郎の名言集(1)

名言1

勤倹身を持し、慈善人にまつべし。

名言2

奉公至誠の念にすべて寸時もこれを離るべからず。

名言3

酒樽の栓が抜けたときに、誰しも慌てふためいて閉め直す。
しかし底が緩んで少しずつ漏れ出すのには、多くの者が気づかないでいたり、気がついても余り大騒ぎしない。
しかし、樽の中の酒を保とうとするには、栓よりも底漏れの方を大事と見なければならない。

名言4

部下を優遇するにつとめ、事業上の利益は、なるべく多くを分与すべし。

名言5

およそ事業をするには、まず人に与えることが必要である。
それは、必ず大きな利益をもたらすからである。

名言6

一たび着手せし事業は必ず成功せしめざるべからず。

名言7

小僧に頭を下げると思うから情けないのだ。
金に頭を下げるのだ。

名言8

人材の育成は学問のある者を積極的に用いよ。

名言9

機会は魚群と同じだ。
はまったからといって網をつくろうとするのでは間に合わぬ。

名言10

樽の上からすくって飲むやつは、たとえ一升飲まれても、三升飲まれてもたいしたことはない。
怖いのは樽の底から一滴でも漏ることだ。

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