太宰治の名言39選!作風や性格がわかるエピソードも紹介!

太宰治の名言ブログのアイキャッチ画像 偉人名言集

太宰治は、1909年6月19日に生まれ、1948年6月13日に亡くなりました。彼は日本の小説家であり、その作品は今でも多くの人々に愛されています。彼の名言には「笑われて、笑われて、つよくなる」や「大人とは、裏切られた青年の姿である」などがあります。このブログでは、太宰治の名言を集め、彼の言葉が私たちに与える影響について考察していきます。どうぞお楽しみください。

太宰治ってどんな人?

項目内容
本名津島修治
ペンネーム太宰治
生年月日1909年6月19日
出生地青森県北津軽郡金木村(現在の五所川原市)
死亡年月日1948年6月13日
死因入水自殺
職業小説家

太宰治は、1909年6月19日に青森県北津軽郡金木村(現在の五所川原市)に生まれました。彼は、津島源右衛門とその妻たねの六男であり、津島家の第十子でした。父である源右衛門は、県議会議員、衆議院議員、貴族院議員を務める地元の名士で、「金木の殿様」と呼ばれるほどの強大な権力を持っていました。また、それ故に多忙でもあり、母であるたねも病弱だったことから、幼い太宰は乳母や叔母、女中たちによって育てられたそうです。太宰治は幼いころから頭が良く、尋常小学校(今でいう小学校)では、「開校以来の秀才」と称され、特にその文学的なセンスは、幼いころから高く評価されていたことが記録によってわかっています。太宰治は1948年6月13日に亡くなりました。彼は愛人の山崎富栄と共に玉川上水に身を投げ、心中しました。享年38歳でした。

太宰治の作風や性格、人生がわかるエピソード

「人間失格」や「羅生門」など現代にも通じる名作で知られる太宰治は、その破天荒な生き方でも知られています。彼の性格や生き様、作風がわかるエピソードを見ていきましょう。

借金の天才

太宰治は、その才能と同じくらいに借金のエピソードでも知られています。彼が弟子入りしたとき、人にお願いをするときには基本的に泣き落としで、友達に借金のお願いをした手紙でも、当時男性が使わなかった女性言葉を多用して相手にすり寄るようにお願いをしていました。また、「熱海事件」と呼ばれるエピソードでは、太宰が金を借りに行ったきり戻ってこず、井伏鱒二と東京で将棋を指していた事件があります。怒った檀一雄に対して太宰は「待つ身が辛いか、待たせる方が辛いか」と言いましたが、2人分の借金を抱えたまま熱海で待っていた檀は、肩身の狭い思いをしていました。さらに、太宰は「生きて行くため」に必要なお金に苦しんだ文豪でした。1936年の『悶悶日記』には「一円五十銭のことで、三時間も家人と言い争い」するなど、「売れない作家」の苦悶がそこかしこに見てとれます。それでいて「自分で生活費を稼ごうなど、ゆめにも思うたことなし」なのですから、家族はたまったものではありません。これらのエピソードは、太宰治の人間性、特に彼の経済的な困難とその対処法について深い洞察を提供しています。それらは彼の作品にも反映され、彼の作品が持つリアリティと深みを増しています。

芥川龍之介への愛

太宰治は、芥川龍之介に対して強い憧れと尊敬の念を抱いていました。彼が芥川龍之介の作品を読み始めたのは15歳の頃で、その後も芥川龍之介の作品に深く影響を受け続けました。太宰治が高等学校生だった頃、彼のノートには「芥川龍之介」という名前が何度も書き連ねられていたようです。芥川龍之介が亡くなった時、太宰治は大変なショックを受け彼はその後、学業を放棄し、芸者遊びを始めるなど、生活が大きく変わりました。芥川龍之介の死は、太宰治にとって大きな影響を与え、彼の人生や作品に深く反映されました。また、太宰治は芥川賞を非常に欲しがっていました。しかし、選考委員の川端康成が「太宰は人間として欠陥がある」と評したことに対し、太宰治は激怒しました。彼は川端康成に対して、「小鳥と歌い、舞踏を踊るのがそんなに高尚か。刺す」という手紙を送りました。しかし、芥川賞は一度候補に上がるとその後は候補にしないという当時の決まりがあったため、太宰治は芥川賞受賞ができないまま終わりました。

太宰治の作風

太宰治の作風は、その生涯と密接に関連しています。彼の作品は一般的に前期、中期、後期の3つの時期に分けられ、それぞれの時期で作風が変化しています。前期の作品では、生への恐怖が作品ににじみ出ており、暗い作品が多く描かれました。政治活動での挫折、実家からの勘当、芥川賞落選、精神病院送り、薬物乱用などさまざまな困難を経験したこの頃の太宰は、破滅的な小説を書きました。中期には、心中事件を経て結婚を機に作風が比較的明るいものへと転換しました。私生活が安定していたため、のびのびとした自由で明るい作風が特徴です。後期には、戦後の激動の時代に、百円紙幣が主人公となっている「貨幣」では人間性と生の喜びが描かれ、「斜陽」「人間失格」では美しい滅びを肯定する太宰の人間観を表現しました。太宰治の作風は、深刻なものから軽妙でユーモラスな作品まで、幅広い作風を持っています。退廃的なのに欲望に溢れ、破滅的なのに想像的。田舎の名家に生まれたせいか、そういった矛盾に満ちたところが太宰の作風と言えるでしょう。

幾多もの自殺未遂とその最後

太宰治は、その生涯で5回以上の自殺企図を繰り返し、1948年6月13日に愛人の山崎富栄とともに玉川上水に入水し、亡くなりました。彼の自殺企図は、彼の作品にも影響を与え、特に自殺企図を作品の題材として多用している点や、複数回女性を巻き込んだ心中という形態をとったことなどが際立った特徴として挙げられます。太宰治の初回の明確な自殺企図は1929年12月10日の自殺未遂で、カルモチンを大量摂取して昏睡状態に陥りました。このときの自殺未遂の原因としては、作品化された「学生群」、「苦悩の年鑑」の中では、プロレタリア文学やマルクス主義に傾倒しながらも、自らの出自は青森県内きっての大地主、いわゆるブルジョア階級であることの板挟みとなったためという思想的な問題であったと描かれています。1930年11月28日には、田部あつみとの心中を図り、カルモチンを大量摂取した上で入水しましたが、太宰治は生き延び、田部あつみは亡くなりました。この事件について、太宰は「私の生涯の黒点である」と書いています。そして、1948年6月13日、愛人であった山崎富栄とともに玉川上水に入水し、太宰治と山崎富栄はともに亡くなりました。この事件は、太宰治の自殺企図の中でも最も著名なものであり、彼の生涯を閉じる悲劇的な結末となりました。

太宰治の名言集(1)

名言1

怒涛に飛び込む思いで愛の言葉を叫ぶところに、愛の実体があるのだ。

名言2

人は人に影響を与えることもできず、また人から影響を受けることもできない。

名言3

人間の生活の苦しみは、愛の表現の困難に尽きるといってよいと思う。
この表現のつたなさが、人間の不幸の源泉なのではあるまいか。

名言4

疑いながら、ためしに右へ曲るのも、信じて断乎として右へ曲るのも、その運命は同じ事です。
どっちにしたって引き返すことは出来ないんだ。

名言5

てれくさくて言えないというのは、つまりは自分を大事にしているからだ。

名言6

君のような秀才にはわかるまいが、「自分の生きていることが、人に迷惑をかける。僕は余計者だ」という意識ほどつらい思いは世の中に無い。

名言7

信じられているから走るのだ。
間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。

名言8

私は、ひとの恋愛談を聞く事は、あまり好きでない。
恋愛談には、かならず、どこかに言い繕いがあるからである。

名言9

笑われて、笑われて、つよくなる。

名言10

愛することは、いのちがけだよ。
甘いとは思わない。

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