宮本武蔵の名言24選!「五輪書」の名言 “構えあって、構えなし”

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宮本武蔵の肖像画

決闘といえばこの人、宮本武蔵ですね。中でも佐々木小次郎との伝説の一戦は今なお語り継がれています。そんな彼の名言には、「多数の人間と戦う時は、こちらが待っていてはいけない。敵が四方から攻めかかってきても、むしろ、こちらから、一方へ追い回す心で向かっていくべきである。待っていてはいけない。こちらから強く切り込み、敵の集団を追いくずし、切りくずしていくのである。」、「観見二つのこと、観の目つよく、見の目よわく、遠き所を近く見、近き所を遠く見ること、それが兵法の要である。」などがあります。

宮本武蔵のエピソードと共に彼の名言を見ていきましょう。

宮本武蔵って何をした?

項目内容
生年月日1584年(諸説あり)
死亡日1645年6月13日
死因不明
出身地美作国(現在の岡山県)
主な業績二天一流兵法の開祖、巌流島での佐々木小次郎との決闘
政策二刀流剣術の開発、五輪書の執筆
宮本武蔵の略歴

宮本武蔵は、江戸時代初期の剣術家であり、大名家に仕えた兵法家、芸術家でした。二刀を用いる二天一流兵法の開祖として知られています。京都の兵法家・吉岡一門との戦いや巌流島での佐々木小次郎との決闘が有名です。後世には、演劇・小説・漫画・映画やアニメなど様々な映像作品の題材になり、現代では「剣豪」または「剣聖」と称されています。彼は1584年に生まれ、13歳で初めて新当流の有馬喜兵衛と決闘し勝利し、以来29歳までに60回以上の勝負を行い、すべてに勝利しています。1600年の関ヶ原の戦いでは、父と共に東軍に参加し、九州で戦ったとされています。(諸説あり)その後、武蔵は諸国を巡り名のある兵法者と戦って、自らの剣術の腕と名声を高める旅に出ました。この中で最も有名な戦いは、「巌流島の決闘」です。これは慶長年間に豊前国小倉藩領(現在は山口県下関市域)の舟島(巌流島)で、岩流なる兵法者と戦ったとされるものです。晩年には、「二天一流」と称して奥義・五輪書を執筆しました。彼が使っていた刀は「無銘金重」「大和国住国宗」で、無銘金重は南北朝時代の美濃国関の刀鍛冶の祖である金重のもので、銘が彫られていないため「無銘金重」とされています。これらの刀は現存しており、熊本市の島田美術館に展示されています。

佐々木小次郎との伝説の戦い

佐々木小次郎の肖像画

宮本武蔵と佐々木小次郎の間で行われた巌流島の戦いは、日本の剣術史上最も有名な決闘の一つです。この戦いは慶長17年(1612年)4月13日に船島(後に巌流島に改名)で行われました。戦いの原因は、宮本武蔵と佐々木小次郎の弟子たちが互いの師の優劣について口論を起こしたことから始まりました。佐々木小次郎は剣術の流派・巌流を創設し、小倉藩の剣術指南役を務めていました。そこに、二天一流を創設した宮本武蔵が新たな指南役として加わりました。2人は同じ剣術指導者で剣の腕が立つということで、弟子たちの間で争いが起こるようになってしまいました。巌流島の戦いは宮本武蔵の勝利で幕を閉じました。戦いの様子は武蔵の養子・宮本伊織が記した『小倉碑文』によると、「岩流」は「三尺の白刃」を手にして決闘に挑み、武蔵は「木刃の一撃」でこれを倒したとあります。このときの武蔵の必殺の一撃は「電光猶ほ遅きが如し」と表現されています。

宮本武蔵の妻は?

宮本武蔵には実際の妻はいなかったとされています。しかし、彼の生涯には女性との関わりが全くなかったわけではありません。特に、彼の物語においては「お通」という女性がしばしば登場します。お通は、武蔵を愛し、武蔵にも愛された女性として描かれています。彼女は武蔵を追って旅をし、武蔵の道を支え続けました。しかし、二人が最後まで「結ばれた」とは言い難い関係でした。また、吉原の遊郭に通っていたという話もあります。遊女雲井が馴染みで、彼女に指物の袋を依頼し、これを受け取って騎馬で島原へと出陣したそうです。これらのエピソードから、武蔵が女性との関わりを持っていたことは確かですが、彼が正式に結婚した記録は存在しません。

宮本武蔵の弟子や子孫

宮本武蔵は生涯結婚せず、自身の子供はいなかったとされています。しかし、彼は二人の弟子を養子にしました。

  1. 宮本三木之助:播磨明石藩10万石の世子、本多忠刻に近侍させましたが、忠刻の病死に伴い殉死しました。
  2. 宮本伊織:小笠原忠真(播磨明石藩10万石→豊前小倉藩15万石)に出仕させ、島原の乱の軍功などで4千石の筆頭家老に昇進しました。伊織の子孫は、幕末まで小倉藩士筆頭の地位を保ちました。

以上のように、宮本武蔵自身の子孫は存在しないものの、彼の養子とその子孫は幕末まで一定の地位を保ち続けました。現在も宮本家の子孫は、小倉を中心に居住しているとされています。これらの情報から、宮本武蔵の影響は彼自身だけでなく、彼の養子とその子孫を通じても引き継がれていることがわかります。

「五輪書」の名言

「五輪書」は、宮本武蔵が著した兵法書で、剣術の奥義をまとめたものとされています。寛永20年(1643年)から死の直前の正保2年(1645年)にかけて、熊本県熊本市近郊の金峰山にある霊巌洞で執筆されたとされています。「五輪書」にて紹介されている名言を紹介していきます。

「何時にても、役にたつやうに稽古し、万事に至り、役にたつやうにをしゆる事、是兵法の実の道也。」

意味:いつでも実戦の役に立つように稽古し、あらゆることについて役に立つように教えること。これこそが兵法の真の道である。

宮本武蔵 五輪書

プロ野球の世界などでも実戦を意識しながらの素振りをしてこそ練習と言いますよね。武士道も同じですね。

剣術一ぺんの利までにては、剣術もしりがたし。

意味:剣術にしか役に立たないようでは、剣術すら知ることは出来ない。

宮本武蔵 五輪書

これもなかなか奥が深い言葉ですね。武力だけ伸ばしても剣術を知ったこととはならず、それを通じてさまざまなことを学べて初めて剣術を学ぶ事ができるという意味ですね。

兵法の道において、心の持ちやうは、常の心に替る事なかれ。

意味:兵法の道において心の持ちようは、平常心と変わってはいけない。

宮本武蔵 五輪書

自分がいかに劣勢となろうとも平常心で最高の自分を出す事が最も大切ですね。

宮本武蔵の名言集(1)

名言1

多数の人間と戦う時は、こちらが待っていてはいけない。
敵が四方から攻めかかってきても、むしろ、こちらから、一方へ追い回す心で向かっていくべきである。
待っていてはいけない。
こちらから強く切り込み、敵の集団を追いくずし、切りくずしていくのである。

名言2

観見二つのこと、観の目つよく、見の目よわく、遠き所を近く見、近き所を遠く見ること、それが兵法の要である。

名言3

体の大きい者も小さい者も、心をまっすぐにして、自分自身の条件にとらわれないようにすることが大切である。

名言4

何れの道にも、別れを悲しまず。

名言5

一生の間、欲心を思わず。

名言6

心、常に、道を離れず。

名言7

平常の身体のこなし方を戦いのときの身のこなし方とし、戦いのときの身のこなし方を平常と同じ身のこなし方とすること。

名言8

構えあって構えなし。

名言9

我、事において後悔せず。

名言10

武士は己を知る者のために死す。

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