上杉謙信の名言13選! “運は天にあり、鎧は胸にあり、手柄は足にあり”

上杉謙信の肖像画

「敵に塩を送る」エピソードで有名な上杉謙信は、戦国時代を代表する武将の一人で、越後国(現在の新潟県)を治めました。彼の言葉は、時代を超越し、今日でも私たちに深い洞察と啓示を与えています。

彼の名言には、「我が命のある間、国家を裏切る者を平らげ、諸国を一つに帰して、貧困に陥った人々を安住ならしめる他に希望はない。もし謙信の運が弱く、この志が空しいものならば、速やかに病死を賜るべし。」「運は天にあり、鎧は胸にあり、手柄は足にありなどがあります。

上杉謙信ってどんな人?

項目内容
生年月日1530年
死亡日1578年
出身地越後国(現在の新潟県)
死因脳溢血
主な業績越後一国の統一、武田信玄との「川中島の戦い」、養子・景勝を後継者に指名
政策「越後の龍」「軍神」と称賛され、その戦略と義理堅さから「義の武将」とも称されています。
上杉謙信の略歴

上杉謙信は戦国時代を代表する武将の一人で、越後国(現在の新潟県)を治めました。彼は「越後の龍」「軍神」と称賛され、その戦略と義理堅さから「義の武将」とも称されています。彼は1530年に越後の春日山城で生まれ、長尾為景の四男として育ちました。6歳の時に父が隠居し、兄の晴景が家督を継ぎました。その後、謙信は寺に預けられ、武道や学問を学びました。19歳の時に兄から家督を譲られ、長尾家の当主となりました。その後も、謙信は越後の安定を目指して戦いを重ね、22歳の頃には統一を果たしました。特に有名なのが、武田信玄との5回にわたる「川中島の戦い」です。これらの戦いは1553年から1564年までの12年間続きました。最も激しかったのが1561年に起こった4回目の戦いで、謙信と信玄が一騎打ちしたとの伝説も残されています。しかし、謙信には実子がおらず跡継ぎも決めていなかったために、養子だった景勝(かげかつ)と景虎との間で後継者争いが起こります。「御館の乱」と呼ばれるこの争いに勝利した景勝は、後に豊臣秀吉政権の元で「五大老」となりました。1578年、生まれたときと同じ春日山城内で突然倒れ、そのまま49年の人生を終えました。死因は脳溢血などの病気ではないかと考えられています。

上杉謙信がしたこと

上杉謙信は戦国時代に越後国(現在の新潟県)を統一した山内上杉家16代当主の戦国武将で、戦国最強とよばれた武田信玄との川中島の合戦などから戦うイメージが強く現代においても高い人気を誇る戦国武将です。また、戦が強かったことから、「越後の龍」「軍神」などと呼ばれていました。その一方で、「敵に塩を送る」のエピソードのように、自分の欲よりも義を重んじた武将としても知られています。上杉謙信は、1530年に越後国(現在の新潟県)の春日山城にて生まれ、内乱が長く続いた越後国を平定し、繁栄させるために尽力しました。また戦国最強とよばれた武田信玄率いる武田軍と川中島で5度も戦うなど、戦の才能を持っていた武将として知られています。仏教に傾倒する上杉謙信は、助けを求める人には手を差し伸べるなど、義に厚い面がありました。それは幼少時から寺に入門して仏道を学び、信仰心や義の心を育んだことも影響していたのかもしれません。

敵に塩を送る

戦国時代の1569年上杉謙信は武田信玄と交戦中、武田方の領民が今川氏によって塩を絶たれていることを知ります。武田氏を降伏させる絶好のチャンスになんと越後の塩を武田氏に送ったとされています。この話が「敵に塩を送る」という言葉の元となり、争っている相手が苦しんでいるときに、争いの本質ではない分野については敵の弱みにつけこまず、逆に援助を与え、その苦境から救う例えとなっています。しかし、実際に上杉謙信が武田信玄に無償で塩を送ったかどうかについては、疑問の声もあります。一部の歴史家は、「戦国大名が敵国に無償で塩を送るなど、ありえないのでは」と疑問に思う人が多いと指摘しています。この逸話の真偽については、現在でも議論が続いています。

上杉謙信の主な戦い

戦い
1561年北条氏に追われた上杉憲政の要請を受け、小田原城を攻める。また、1万3000の兵を率いて川中島に出陣し、第四次川中島の戦いが行われました。
1564年信玄に攻略された野尻城を奪還し、川中島で対峙。これが第五次川中島の戦いとなりました。
1578年春日山城で倒れ、急死しました。
上杉謙信の主な戦い

上杉謙信の名言集(1)

名言1

我が命のある間、国家を裏切る者を平らげ、諸国を一つに帰して、貧困に陥った人々を安住ならしめる他に希望はない。
もし謙信の運が弱く、この志が空しいものならば、速やかに病死を賜るべし。

名言2

四十九年
一睡の夢
一期の栄華
一盃の酒

名言3

生を必するものは死し、死を必するものは生く。

名言4

我は兵を以て戦ひを決せん。
塩を以て敵を屈せしむる事をせじ。

名言5

大事なのは義理の二字である。
死ぬべきに当たってその死をかえりみず、生きる道においてその命を全うし、主人に先立つ、これこそ武士の本意である。

名言6

信玄の兵法に、のちの勝ちを大切にするのは、国を多くとりたいという気持ちからである。
自分は国を取る考えはなく、のちの勝ちも考えない。
さしあたっての一戦に勝つことを心掛けている。

名言7

戦場の働きは武士として当然のことだ。
戦場の働きばかりで知行を多く与え、人の長としてはならない。

名言8

家訓16ヶ条「宝在心」
一、心に物なき時は心広く体泰なり
一、心に我儘なき時は愛敬失わず
一、心に欲なき時は義理を行う
一、心に私なき時は疑うことなし
一、心に驕りなき時は人を教う
一、心に誤りなき時は人を畏れず
一、心に邪見なき時は人を育つる
一、心に貪りなき時は人に諂うことなし
一、心に怒りなき時は言葉和らかなり
一、心に堪忍ある時は事を調う
一、心に曇りなき時は心静かなり
一、心に勇みある時は悔やむことなし
一、心賤しからざる時は願い好まず
一、心に孝行ある時は忠節厚し
一、心に自慢なき時は人の善を知り
一、心に迷いなき時は人を咎めず

名言9

武士は馬を我が足と思い、弓鎗を左右の手と定め、敵を撃つ刃は己の心と考え、常に武道をたしなむ事が、本意の核心である。

名言10

人の上に立つ対象となるべき人間の一言は、深き思慮をもってなすべきだ。
軽率なことは言ってはならぬ。

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