【世界の王】王貞治の名言30選!「努力は必ず報われる」の全文などを紹介

王貞治の名言ブログのアイキャッチ画像 偉人名言集
王貞治の肖像画

王貞治さんは、日本のプロ野球界を代表するレジェンドであり、その名言は彼の人生観や哲学を如実に表しています。「努力は必ず報われる。もし報われない努力があるのならば、それはまだ努力と呼べない」という彼の名言は、彼の闘魂を象徴する言葉として多くの人々に親しまれています。

王貞治ってどんな人?

項目内容
生年月日1940年5月20日
出身地東京都墨田区
所属球団読売ジャイアンツ
病歴・病気胃癌(2006年)、腸閉塞と胆嚢(2009年)
王貞治の略歴詳細

王貞治さんは、1940年5月20日に東京都墨田区で生まれました。1959年に読売ジャイアンツに入団し、その年の新人王、本塁打王、打点王を獲得しました。彼の活躍は止まることなく、その後も多くの記録を打ち立てました。彼は日本プロ野球において400本塁打・2000安打の同時達成は大卒では史上初である。NPB最多記録となる最多安打を10回獲得、セ・リーグ最多記録となる首位打者を6回獲得しました。1977年に世界記録となる通算756号本塁打を放ち、初の国民栄誉賞を受賞しました。1980年に現役引退しました。引退後は読売ジャイアンツや福岡ソフトバンクホークスで監督を歴任しました。2006年の第1回ワールド・ベースボール・クラシックでは日本代表監督を務め、優勝へ導きました。現在も福岡ソフトバンクホークス株式会社取締役会長として活躍しています。彼の人生は、「挑み続けた男・王貞治」の真実を追求することで理解することができます。彼が残した名言「努力は必ず報われる。もし報われない努力があるのならば、それはまだ努力と呼べない」という信念の下、全てを野球で跳ね返し愛される人物となりました。

王は王でも”三振王”

“ホームラン王”こと王貞治は元々”三振王”と揶揄される選手でした。プロ入り2年目の1960年に101回の三振を記録し、これは彼のキャリアでシーズン3桁三振を喫した唯一の年でした。その多さから「王は王でも三振王」と野次られることもありました。しかし、その後彼は特徴的な一本足打法を身につけ、本塁打と四球が多く、三振が少ない打者となりました。その背後には、彼の強い下半身と優れた選球眼がありました。また、1968年9月17日には、阪神タイガースの江夏豊が、当時のシーズン記録だった稲尾和久の「353奪三振」を更新する試合で、新記録となる354個目の三振を、王貞治さんから奪いました。この試合前、江夏豊は、ライバル視していた王貞治さんからどうしても三振を奪いたいと公言していました。

怠け者から努力の王貞治へ

前述した”三振王”の王貞治は若手時代「怠け者」として知られていました。彼は練習をまともにせず、すぐに銀座に遊びに行くような人物でした。そのような練習の態度のせいか巨人軍に入団した当初、彼のホームランは年間7本、17本、13本と、まだ大成していませんでした。しかし、1962年に川上哲治監督から「ホームラン25本、打率2割7分を打てるバッターに育ててくれ」という目標を掲げられ、その目標に向かって努力を始めました。彼が真剣に練習を始めたのは、キャンプでのトスバッティングでも空振りが続いた後でした。それまで彼はグラウンド以外ではほとんど練習をしていませんでしたが、その時恩師である荒川博氏より「これから3年間、酒もたばこも女もダメだ。俺の言うとおり、修業するつもりで頑張れるか」という指導の下、真剣に練習を始めました。そして、その結果、彼は「3年間」の修業を終え、1965年には最多本塁打の記録である55本を打つまでになりました。その後も彼は「今まで以上にしごいてください」と言って、さらなる努力を続け、最終的には世界一のホームラン王になりました。

一本足打法へのフォーム変更

王貞治さんが一本足打法を身につけるまでの道のりは、困難と努力に満ちたものでした。彼がプロ4年目に直面したスランプが、この打法の生みの親となりました。シーズン当初、極度の不振に陥った王貞治さんは、ボールとのタイミングがとれず、ピッチャーに差し込まれては、打球がつまる打席を繰り返していました。そんな彼にアドバイスを送ったのが、読売巨人軍のバッティングコーチを務めていた荒川博さんでした。荒川さんは、王貞治さんに対して、右足を早くあげてタイミングをとり、ボールを呼び込んで打てとアドバイスし、このアドバイスが、後の一本足打法の原型となりました。その成果は早くも現れました。打撃フォームを一本足打法に替えた試合で、王貞治さんはいきなり5打席3安打4打点の活躍を見せました。その後も、彼はホームランを打ち続け、シーズンを通してホームラン38本、85打点の成績をあげて、ホームラン王と打点王のタイトルに輝きました。また、王貞治さんは、一本足打法をさらに磨くために、日本刀を使った素振り練習も行いました。これは、彼が打撃のパワーと精神力を強化するための独自のトレーニング法です。

“ON”長嶋茂雄との関係

王貞治さんと長嶋茂雄さんのコンビは、日本プロ野球界で「ON」として知られ、読売ジャイアンツの中心となりました。彼らは1959年から1974年まで活躍し、その間に巨人軍はV9(9連覇)を達成しました。王貞治さんが一本足打法を身につけた1962年以降、彼らはイニシャルから「ON」と並び称され、巨人軍の中軸を担いました。この「ON」という言葉は、デイリースポーツが造り出したもので、通常は3番に王、4番に長嶋を配置していましたが、試合によっては打順を入れ替えて3番長嶋、4番王としていました。彼らはともに国民的スーパースターであり、時に明暗を分け、途中からは監督と選手になりました。彼らの功績を讃え、後楽園球場では1981年から閉場の1987年まで1番ゲートを「王ゲート」、3番ゲートを「長嶋ゲート」と称しました。また、彼らはそれぞれの打撃スタイルで知られています。王貞治さんは引っ張り方向に打球が集中するプルヒッターであり、一方の長嶋茂雄さんは打席の位置やスタンドを変え、野手のいないところに打つ技術が上手でした。

王貞治の成績

王貞治さんの主な記録を以下の表にまとめました。

記録数値
本塁打王15回
打点王13回
MVP9回
首位打者5回
ベストナイン18回
本塁打868本
王貞治の通算記録

王貞治の名言集(1)

名言1

もう打てないんじゃないかという恐怖は、常について回るんです。
結果を残してきた人ほど不安と戦ってきたはずだし、恐怖心を持っていない人は本物じゃない。
その怖さを打ち消したいがために、練習するわけです。

名言2

ジャイアンツでは、何のための練習なのか、自分の役割は何なのかを明確に意識していました。

名言3

勝つための最善の努力は、どんな時もやめてはいけない。
逃げたらだめなのです。

名言4

王貞治のバッティングが出来なくなりました。

名言5

仕事は忍耐第一主義。

名言6

自分のためにやるからこそ、それがチームのためになるんであって、「チームのために」なんて言うやつは言い訳するからね。
オレは監督としても、自分のためにやってる人が結果的にチームのためになると思う。
自分のためにやる人がね、一番、自分に厳しいですよ。

名言7

敵と戦う時間は短い。
自分との戦いこそが明暗を分ける。

名言8

いい時もあるし、悪い時もあります。
自分もまた、それで初心に戻れたりしましたね。

名言9

名選手になることは難しくない。
努力を怠らず、目の前にあるものをキッカケを逃さずに、確実に掴んでいけば、必ずどうにかなる。

名言10

直球を一球でしとめろ。
それができなくなれば終わりだぞ。

コメント

タイトルとURLをコピーしました