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マリー・アントワネットの名言13選!言っていない「ケーキを食べればいいじゃない」と最後の言葉

マリーアントワネットのエピソードと名言ブログのアイキャッチ画像 マリー・アントワネット

「パンがなければケーキを食べればいい」みなさん一度は聞いたことがある言葉ですよね。飢餓を訴えている国民に対してなんて酷い言い草だと思ったことは一度はあるのではないでしょうか?でも実はマー・アントワネット自身はそんな言葉を言っていなかったと言われています。そんな様々な陰謀の渦巻く中心にいた彼女の名言には、「わたしにとって最大の不幸は、みんなを失望させることです。」などがあります。彼女がどんな人生を歩み、どのような思い出名言を残したのかをまとめていきます。

マリー・アントワネットってどんな人?

項目内容
生年月日1755年11月2日
出生地オーストリア、ハプスブルク家
結婚1770年、フランス王太子ルイ16世と結婚
フランス王妃就任1774年
フランス革命開始1789年
ルイ16世処刑日1793年1月21日
マリー・アントワネット処刑日1793年10月16日
死因ギロチンによる処刑
処刑地コンコルド広場
マリー・アントワネットの略歴

マリー・アントワネットは、1755年11月2日にオーストリアの名門ハプスブルク家に生まれました。彼女の父は神聖ローマ皇帝フランツ1世、母はオーストリア女大公マリア・テレジアで、彼女は11番目の娘でした。14歳のとき、オーストリアの敵国であったフランスの王室に嫁ぎました。その後、彼女はフランス国王ルイ16世の妃となりました。しかし、彼女の生活は批判の対象となりました。特に、彼女がヴェルサイユで豪華な生活を送りつつも、宮廷の束縛から逃れるためにプチトリアノンで過ごすことが多かったことや、彼女の愛人と噂されるハンス・アクセル・フォン・フェルセンとの交流が知られていました。1789年にフランス革命が始まり、マリー・アントワネットを含む国王一家は軟禁されました。彼女は反革命勢力を形成し、君主制維持を目指して諸外国と交渉を行いました。しかし、逃亡に失敗し、1792年にフランス革命戦争が勃発したことで彼女のイメージはさらに悪化しました。同年8月10日に王政が廃止され、国王一家は収監されました。その後、ルイ16世は裁判を経て1793年1月21日に処刑されました。一方、マリー・アントワネットも裁判を経て同年10月16日に処刑されました。

何をした人?

マリー・アントワネットはオーストリアの皇女として生まれ、フランス王ルイ16世の王妃となりました。彼女の時代、フランスは重大な経済的困難に直面していました。国の財政は破綻寸前で、税制も不公平であり、大部分の税負担は貧しい第三身分(一般市民)にかかっていました。この経済的困難の中、マリー・アントワネットと宮廷の豪華な生活は国民の不満を増幅させました。特に、マリー・アントワネットが「パンがなければケーキを食べればいい」と言ったという(実際には彼女が言ったとの確固たる証拠は存在しない)逸話は、彼女への国民の怒りを象徴するものとして知られるようになりました。1789年、不満が高まった国民はバスティーユ牢獄を襲撃。これをきっかけにフランス革命が始まりました。革命は急速に進行し、王権は廃止され、共和制が宣言されました。マリー・アントワネットとルイ16世は革命家たちに捕らえられ、最終的にギロチンで処刑されました。このフランス革命は、封建制度の終焉と近代国家の成立への道を開く歴史的な出来事であり、マリー・アントワネットはその中で重要な役割を果たした人物の一人でした。

最後の言葉

マリー・アントワネットの最後の日、彼女はフランス革命によってパリのコンコルド広場にあるギロチンの前に連れてこられました。彼女の処刑の場面は、多くの人々によって見守られていました。革命の最中、彼女は王権の象徴として多くの非難を受けていましたが、その最後の瞬間でも彼女の品格は失われませんでした。最後の言葉について、一番有名なエピソードは、彼女が処刑台に向かう際、誤って執行人の足を踏んでしまい、彼に向かって「ごめんなさい、わざとではないのよ」と謝ったというものです。この瞬間、彼女は自らの命よりも他者の気持ちを思いやる姿勢を見せたと言われています。このエピソードは、彼女の人間性や貴族としての教育を受けた背景を示しており、彼女が死の直前までその品位を保ち続けたことを物語っています。

言っていない「パンがなければケーキを食べればいい」

「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」(”Let them eat cake”)という言葉は、フランス革命前のフランス王妃マリー・アントワネットが飢えた民衆に対して発したとされる有名な言葉ですが、実際には彼女がこの発言をしたという証拠はありません。この誤解についての事実を以下にまとめます。

発言の起源と誤解

ジャン=ジャック・ルソーの著作:この言葉の最初の記録は、ジャン=ジャック・ルソーの自伝『告白』(1767年)に登場します。ルソーは、ある「偉大な王女」が、パンがないという報告に対して「ブリオッシュを食べればいい」と言ったというエピソードを記しています。しかし、この「偉大な王女」が誰であるかは特定されていませんし、マリー・アントワネットの名も出てきません。

マリー・アントワネットの時代との不一致ルソーの『告白』が書かれた時期とマリー・アントワネットがフランスに来た時期を考えると、彼女がこの発言をしたという説は時系列的に一致しません。マリー・アントワネットがフランスに嫁いだのは1770年であり、ルソーの『告白』が出版された時点ではまだフランスにいませんでした。

反王室プロパガンダ:フランス革命の前後には、王室に対する反感が高まっており、プロパガンダとして多くの偽情報や誇張されたエピソードが広まりました。この「ケーキを食べればいい」という言葉も、その一環としてマリー・アントワネットに帰され、彼女の冷酷さや無知を強調するために利用されたと考えられます。

歴史的評価現代の歴史学者は、マリー・アントワネットがこの発言をしたという証拠がないことを確認しており、彼女が実際にそのようなことを言ったとするのは不正確であると見なしています。むしろ、彼女は慈善活動を行うなど、民衆の苦しみに対して一定の関心を示していた記録もあります

結論

「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」という言葉は、マリー・アントワネットが発言したという証拠はなく、むしろルソーの著作から誤解されて広まったものです。反王室プロパガンダの一環として彼女に帰されたこの言葉は、歴史的には事実ではないことが明らかになっています。マリー・アントワネットの冷酷さを示す象徴的なエピソードとして広まったこの言葉ですが、実際には彼女の人格や行動を正確に反映しているわけではないのです。

マリー・アントワネットの名言集(1)

名言1

わたしはすべてを見て、すべてを聞いた。
そしてすべてを忘れたのです。

名言2

わたしにとって最大の不幸は、みんなを失望させることです。

名言3

みんなが取り乱しているときには、冷静さを保つことが大切なのです。

名言4

さようなら、わたしの子どもたちよ、永遠に。
わたしはあなたの父のところへ行くのよ。

名言5

わたしは育てられたのではなく、作りだされたのです。

名言6

パンがなければお菓子を食べればいいじゃない。

名言7

わたしは王妃でした。
わたしの王冠は奪われました。
わたしは妻でした。
わたしの夫は殺されました。
わたしは母でした。
わたしの子どもたちは奪われました。
今、わたしの血だけが残っています。
それも取りなさい。
いつまでもわたしを苦しませないで。

名言8

わたしは退屈な日々を過ごすのがとても怖いのです。

名言9

忘れられてしまったもの以外に新しいものは何もない。

名言10

さようなら、いとしい人よ。
あなたへの愛を止められるのは死だけです。

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